« 交流戦 ヤクルト対ソフトバンク(5/6) | トップページ | 感想「小さな大打者 若松勉」 »

感想「日本人はなぜ無宗教なのか」

「日本人はなぜ無宗教なのか」 阿満利麿 ちくま新書
日本人は無宗教なのではなく、自身では必ずしも意識していないが、元々自然発生的な宗教の影響下にあり、教祖が教義を定めた「創唱宗教」には馴染んでいないだけ、というのが本書の主張。そして、日本人が、そういう心性を得るに至った過程を論じていく。一方で、日本の宗教の本来の姿がどういうものであったか、という点も、解説しているが、興味を引かれたのは前者の部分。もっとも、日本人の宗教は自然発生的な宗教、みたいなことなら、誰でも考えそうな気がするし、それだけなら読む値打ちはないと思ったが、話はそこに止まっていない。
明治時代に国民を支配する手段として、それまで存在していた自然発生的な宗教をベースに国家神道が作り上げられる一方で、これを宗教と見做さないと定め、国家神道が実質的に国民に強制されていたにもかかわらず、それは「宗教ではない」ので信教の自由は守られているという、詭弁的な特異な状況が作り出された、という所へ話を掘り下げている。そして、これが日本人が元々持っている「無宗教な」心性と相乗効果を起こし、タガの外れた国家神道か暴走する一方、日本人の「無宗教」という感覚も強化された、というようなことを書いている印象。
特異な状態と書いたが、現在の日本でも状況は変ってない。地鎮祭とか、首相や閣僚の靖国神社参拝を宗教的な行為と見做さない考え方なんかは、これに連なるものなんだろう。日蓮宗と深い関わりがある党派のはずの公明党が、権力の右翼的な動きに乗っかることに、ほとんど抵抗も見せないことも、こういう前提で考えれば、理解しやすいのかも。本書中には、国家神道が形成されて行く中で、浄土真宗が大きく関わりを持ったことが書かれているけど、その辺も、今の公明党のあり方に非常にかぶってくるように思える。
著者の主張としては、そうした歴史的な経緯も踏まえた上で、日本人が自分たちの宗教について、もっと自覚的であるべきだ、といった所か。著者は宗教の重要性を力説しているが、個人的には、特定の状況における、救いとしての宗教の必要性は理解出来るけれども、日常の中では必要ないものと思っているので、その辺は相容れないかも知れない(実は、その辺の日本人の日常性指向の強さというのも、本書には書かれているのだけど)。ただ、宗教と慣習の境目をぼやかす曖昧さが、戦前のような状況を作り出しかねないという意味では、宗教について明確に認識しておく必要性は感じる。
もう一つ、本書の趣旨とはあんまり関係ないが、国家神道というものが成立して、ほんの数十年の間に、それが日本人の価値観を強く規定するものになってしまったという所に、恐ろしさを感じる(元々、それを受け入れる素地はあったのだとしても)。国家権力が、自分の都合がいいように世論を作り上げようと思えば、そんなのは簡単に出来てしまうということなんだろう。実際、北朝鮮や中国の反日教育なんて実例も、目の当たりにしてる訳で。一方で、そういう現象に対して、オウム返しのような反中国・反北朝鮮という、一面的な論調しか叫ばない政治家・メディアなんかを見てると、今の日本でも、そういうことが進行しつつある、という危惧を感じるんだな。

|

« 交流戦 ヤクルト対ソフトバンク(5/6) | トップページ | 感想「小さな大打者 若松勉」 »

「小説以外の本」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/3787/4015816

この記事へのトラックバック一覧です: 感想「日本人はなぜ無宗教なのか」:

» 日本人はなぜ無宗教なのか [暁を撃て!]
「海外に出て信仰を問われても決して『無宗教です』と答えてはいけない」 そんなことが言われるほど、世界各国における「無宗教」(=無神論)に対する拒否感は強いのです。逆に言えば、無宗教を標榜するのが当然の... [続きを読む]

受信: 2005.09.26 22:53

« 交流戦 ヤクルト対ソフトバンク(5/6) | トップページ | 感想「小さな大打者 若松勉」 »