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感想「震災とフィクションの“距離”」

「震災とフィクションの“距離”」 早稲田文学会
去年の初めくらいに本屋の棚で見かけて何となく買った。2012年の4月に早稲田文学の「記録増刊」として出ていた雑誌的な体裁の本なんで、売れ残りだったのかも? 
2011年3月11日の震災に対して、直後に早稲田文学が行ったチャリティの記録で、短篇小説やエッセイ的なもの19篇と座談会を2本収録している。また、本の後ろ半分はそれらの英訳・韓国語訳・中国語訳。

日頃、小説は結構読むけど、エンタテインメントが主体で、あんまり文学的なものは読まないから、収録されている小説の中には、どう受け取ったらいいのか、いまいちよくわからないものもあったりした。
エンタテインメントって、書かれる目的が明確だし、評価のポイントは多分に作家の技術だと思ってるから、いつもは割とそういう観点で小説を読んでるけれど、それは多分、評価基準が全然違う(と思う)文学には当てはまらないだろう。
本書について言えば、基本的には震災にインスパイアされた作品群ということになるんだろうけど、そういう所からこういう小説が生まれるんだ?、というわからなさみたいなものが、結構あった。作家の中では繋がってるんだろうな、と考えると、そういう回路を自分の中に作れる人だから、文学をやる(やれる)のかな、と思わないでもない。
それでも、わからなくても、読んでいてなにがしか伝わるものがある、と思う作品はあった。この本全体を覆ってる不安感や鬱的な雰囲気が、今の自分の気分とシンクロしてることもあって、わかるわからないはともかく、読んでいて、感じるものがあったということかなと思う。
せっかく読むなら、考えさせてくれる、よくわからない小説の方がいい、という気もするし(“わかる”小説なら、普段からエンタテインメントの方で、そこそこ分量を読んでいるわけで)。それに震災を直接描いたとしても、フィクションはノンフィクションに勝てないんじゃないだろうか、とも思う。まあ、タイトルから考えると、その辺が、まさにこの本のテーマでもあるんだろうけど。

座談会は、ある程度は、こうした小説が書かれる舞台裏を見せてくれたし、文学の作家というのが、思いのほか、どういう風に読まれるのかというのを考えながら、小説を書いているらしい、ということも分かった。あの震災で、書けなくなった小説家、作品が作れなくなった芸術家という話を、いくつも耳にして、感覚的に分からなくはないけれど、自分の内面を表現するものであれば、外で起きた出来事とはあんまり関係ないような気もするんだが、と思っていた。でも、文学と言っても、そこまで閉じたものではないということなんだな。というか、むしろ俺があんまり狭く考えすぎているんだろう。エンタテインメントと、そこまで本質的な違いってのはないんだろう。
ただ、座談会については、そういう箇所以上に、当時の世の中の雰囲気みたいなものが伝わってくるところが、4年以上経った今読むと、興味深かった。座談会の中で、そういう発言をする役割を振られていたのかもしれないけれども、川上未映子の発言が一番あけすけに核心を突いている感じがした。特に原発に関する部分。何かが大きく変わってもいいはずなのに、(少なくともいい方向には)結局何も変えられないんじゃない?というようなことを、露骨に言っているし、とりあえずは今のところ、それが当たっている状況。俺が鬱っぽくなってるのも、多分にそれが理由だし、と思ったりした。
(2016.2.5)

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