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感想「ミスター・マジェスティック」

「ミスター・マジェスティック」 エルモア・レナード 文春文庫
「オンブレ」の訳者あとがきで村上春樹が、レナードのウエスタン風の現代小説の中で、推奨する作品として挙げていたもの。原著は1974年の刊行。邦訳は1994年で、自分が読んだのはその直後。再読は、多分、それ以来。

アリゾナでメロン畑を営む、ベトナム戦争帰りの主人公・ヴィンセント・マジェスティックが、地元のやくざとのいざこざをきっかけに、偏執狂の大物殺し屋に付け狙われる話。

ストーリーは単純。ややこしいことをあれこれ考えさせるような余地は、ほぼない。主人公と悪い奴らが、ウエスタン風な構図の中でひたすら戦う話で、比較的単純な話が多かった印象のある彼の初期の犯罪小説でも、ここまでシンプルなものはあまりないかも(ただ、初期の犯罪小説は、現時点でも未訳が結構あると思うので、その印象が正確かどうかは、なんともいえない)。しかも、場面がいちいち華々しい。序盤の護送車襲撃シーン、中盤の度重なる激しいカーチェイス、終盤の銃撃戦。訳者のあとがきに、レナードが書いた映画のシナリオがベースになっている、という記述があり、それを考えると、かなり納得出来る。いかにも映画的な内容ではあると思う。
悪役の造型に、いつものらしさは感じられるとはいえ、それ以外の登場人物は、割と類型的だし、主人公も単純なヒーローに近い。レナードとしては少し特殊な作品というべきなんじゃないかな。繰り返しになるが、邦訳紹介されていない初期の犯罪小説が相当数あると思われ、自分がそれを読んでいない現状では、その辺をはっきり言い切ることは出来ないけれど。
ただ、村上春樹は未訳作も読んでいるようだし、その上で本書を推しているというのを、どう考えたらいいか。確かに、単純明快に面白い小説なのは確かだし、それが推奨の理由と考えていいのかもしれない。もっとも、邦訳されていることも、理由の一部には違いないだろう。

「オンブレ」では、主人公を他の登場人物の視点から描いているので、主人公の内心が見えず、謎めいたハードボイルド的な人物に見えると感じたが、本書は主人公の視点もどんどん描かれていくから、そういう雰囲気はない。もし、同じような描き方をしていれば、この主人公も、メロン栽培に異常にこだわるストイックな人物に見える、のかな? あんまり、そういう気はしないが。ウエスタン的な構図はあるにしても、「オンブレ」とはかなり違う雰囲気の小説になっているのは間違いない。 ずっと単純で、ストレートな娯楽小説と言えると思う。
(2018.2.18)

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感想「本格ミステリ戯作三昧」

「本格ミステリ戯作三昧」 飯城勇三 南雲堂
本格ミステリの有名な作家や作品についての評論集だが、形式が独特。対象とした作家の作風や作品について、それらを真似て、論点が明確になる内容の贋作を書き、併せて評論で論じるという形を取っている。小説と評論が並行して置かれているので、確かに著者の意図が分かりやすい。自分がそれほど関心がない作家や作品についても、言わんとしていることが何となく理解出来るというメリットもあったかなと。
贋作の内容については、基本的にはお遊び的なものなので、あれこれ言うのは無粋かな。ただ、しっかり考えて書かれたものではあるし、どれも面白く読めた。

そこそこ分厚い本ではあるが、15章から成っているので、一篇一篇は結構短く、やや食い足りない部分もある。体系的な評論集というよりは、ミステリのマニアが、思いつくままに色んな作家や作品を論じてみた、という雰囲気が強く感じられる内容だと思う。商業出版にしては、随分、趣味的な本だなあ、とは思ったが、著者の名前だけでも、ある程度は売れるという判断を出版社がしたんだとすれば、飯城さんにはちょっと感心してしまう。ミステリ・マニアとしての、長年の活動の積み重ねの上で、出せた本だと思うので。
まあ、同じ出版社が2016年に出した「本格ミステリー・ワールド2017」を読んだ時、まるっきり同人誌だな、と思ったのだけれど、それを考えれば、こういう本が商業出版で出ても、不思議はないのかもしれない。ちなみに本書収録の綾辻行人篇は、「本格ミステリー・ワールド2017」からの再録。

なお、著者がエラリー・クイーン研究家なので、クイーン関連の項目が多い。クイーンに関する贋作・評論だけでも、読む値打ちは十分にある本じゃないかと思う。
(2018.2.17)

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感想「ドクター・マーフィー」

「ドクター・マーフィー」 ジム・トンプスン 文遊社
1953年に書かれた長篇で、昨年邦訳されたもの。

財政難で破綻寸前の、アル中患者の療養所を舞台にした小説。資金繰りに頭を悩ます療養所を経営する医師、そこで働くスタッフたち、入院しているアル中患者たちが繰り広げるドタバタが描かれる。

サスペンスでもミステリでもない。トンプスンのその種のジャンル小説での傑作は、既に一通り訳されているというから、単純にトンプスンの名前から期待するような小説でないのは、ある程度予想していたけれど、ここまでとは思わなかった。先日読んだ「天国の南」は、終盤の雰囲気は少し違ったとはいえ、ストーリーとしては、過去に邦訳された小説に通じるものではあった。本書はそういうものでもない。
ただ、登場人物のフリークス趣味みたいな所は、紛れもなくトンプスンだと思う。登場人物は誰もかれも破綻しているし、それが戯画的に描かれている所に、らしさは見て取れる。とはいえ、だから何?、というのを、思わないわけにはいかない。自身がアル中で苦しんだトンプスンの姿が見え隠れしてくるようではあるけれど(最後の方に、自身をモデルにしたとしか思えない、アル中の作家も出てくる)、それをテーマとして突き詰めた小説にも見えない。狙い目としては、アル中を登場人物にしたドタバタ喜劇、ブラック・コメディといった所だったんだろうが、だとしてももう少し突き抜けたものがないと笑うこともできない。一般的な読者を対象とした、娯楽小説としては厳しかったんじゃないかと思う。

トンプスン的な雰囲気を僅かでも感じられればそれでいい、というような読者にしか、向かない小説じゃないかと思った。
(2018.2.15)

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練習試合 大宮対群馬

2018.2.11(日祝) 14時 NACK5スタジアム大宮

 大宮アルディージャ 2(1-0)0 ザスパクサツ群馬
            (1-0)

 得点 26分 大宮・シモビッチ
    89分 大宮・大前

 出場選手
 (前半のみ。自分が視認した背番号から判断したものなので、間違いはあるかもしれない。
  特に群馬は、サイトに名前が出ていない選手が多数)
 大宮 笠原(GK)、中村、菊地、キム ドンス、渡部、
    三門、大山、酒井、嶋田
    シモビッチ、大前
 群馬 松原(GK)、38(不明)、坪内、37(不明)、
    風間、31(不明)、舩津、岩田、
    一柳、川岸、久木田

練習試合。
新都心で買い物した後、大宮の街中へぶらぶら向かったら、スタジアムへ向かってく大宮サポらしき人間を何人か見かけて、試合でもあるのか?と思って、オレンジスクエアへ行ったら、無料公開の練習試合を14時からやるというチラシが置いてあった。その時点で13時半くらいだったから、ちょうど間に合う時間。シモビッチ見たさに行ってみることにした。

入場無料のせいか、満員に近い入り。まあ、試合前に少年サッカーのイベント的なものを抱き合わせでやったらしく、それ系の観客もだいぶ居たけれど。
シモビッチのグッズとかがあるかなと思って、スタジアムの物販をちょっとのぞいたが、なかった。そういうのは開幕に合わせて発売されるのかな。大宮のフラッグへの激励の寄書きを集めていて、「シモビッチ、去年はありがとう」的なことを書きたい誘惑に駆られたが、名古屋サポの評判を落とすのは確実なので、やめた(^^;

試合内容としては、途中まではほぼ互角の戦い。大宮がゴール前のシモビッチめがけて、サイドからクロスを入れようとしていたが、出足の速さでまさる群馬が、大宮にあまり自由にプレーさせなかったし、攻勢な場面も作っていた。しかし、時間が進むにつれて、群馬が大宮の攻撃をしのぎ切れなくなり始め、30分頃に、左からのクロスをシモビッチが器用に捌いてシュート。群馬のGKは反応したものの、防ぎきれずに大宮が先制点。そこから後の時間帯は、大宮の優勢がはっきり見える内容だったと思う。やっぱり、選手のスキルは大宮の方が上だし、群馬の動きは次第に落ちてきた。それでも前半は1-0のまま終了。
ちょっと空が陰って寒くなってきたし、シモビッチのゴールも見たし、よそのチームの練習試合を、そんなにガチで見る気は元々なかったから、前半だけで撤収。
試合は2-0で大宮が勝ったとのこと。ちなみに2点目は89分の大前だったそうで。

相変わらず、シモビッチが足元の技術の巧さを見せていた。飛ばずに競り勝つポストプレーも健在。やっぱり格好いいなあ、と思った。今年、彼がうちのチームにいないのが残念。
フローデもジョシュアも好きな選手だったし、いい選手だったと思うし、力は彼らの方が上だっただろうなとは思うが、プレーが絵になるという点では、シモビッチは特別なような気がする。もっとも、今日の相手は今年はJ3の群馬だから、あそこまでのびのびやれたんだろうけど。

群馬は、サイトに選手名が載っていない背番号の選手が複数出ていた。J3は開幕も遅いし、まだ何人も練習生を試している段階なんだろう。3-4-3っぽいフォーメーションに見えていたけれど、3トップの3人(一柳、川岸、久木田)が全員DF登録の選手というのも、いかにもまだ準備段階な感じ。考えようによっては、それでも大宮相手にそれなりに試合出来ていたんだから、悪くはなかったということかな。

それにしても、テンパらずに気楽に見れる試合って、いいよな。サッカーで、そういう試合は、久々に見たので(^^;
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感想「オンブレ」

「オンブレ」 エルモア・レナード 新潮文庫
レナードが、現代を舞台にした犯罪小説の前に書いていた、西部小説の代表作。未訳だったが、レナードの経歴が紹介されるときには、常に言及されていたから、ある種、幻の小説みたいなイメージを持っていた。原著は1961年の刊行で、今回、村上春樹の翻訳で、ついに邦訳。なぜ?、と思ったけど、村上春樹がレナードに思い入れがあったということらしい。彼がやりたいと言えば、出版社も、結構言うことを聞いてくれそうだし。
なお、短篇「三時十分発ユマ行き」が併録されている。

19世紀末のアメリカ西部が舞台で、白人とメキシコ人の混血として生まれ、幼い頃にアパッチ族に誘拐されて育てられた、複雑な出自を持つ男が、犯罪者の集団と対決する話。
ストーリーは必要以上にややこしくないし、ストイックな雰囲気の主人公は格好良くて、娯楽小説として、素直に面白かった。
ただ、必ずしも、単純にヒーローが悪者と戦う、という構図ではない。主人公は普通ではない育ち方をしているので、周囲の人間には彼が何を考えているのか、よくわからない。一方で、成り行きで彼と行動を共にする数人の人物も、それぞれ面倒な背景を抱えていて、利害関係や考え方の衝突が至る所に出てくる。西部劇映画からの連想で(というほど、西部劇映画も見てないが)、もう少しシンプルなヒーロー小説なのかなと思っていたが、意外に、複雑な内容を持っているように感じられた。特にアパッチ族の取り扱いについては、一面的な善悪で割り切れないものがあるように思える。そこに素直な面白さとは別に、小説としての深みも感じられる。内容が古びていないのは、そのあたりが理由かもしれない。
西部小説というのが、そもそもそういうものだったのか、それとも、西部小説の隆盛が終りかかった頃に登場したレナードの作品が、ジャンルの中で特殊な位置を占めるものなのか、その辺は知識がないので、わからないんだが、訳者のあとがきを読む限り、やはり主流のスタイルではなかったようではある。

レナードが後に書き始めた現代物の犯罪小説(現代物と言いながら、実は初期のものは、既に50年前の1970年頃だったりするんだが(^^;)との比較では、ヒーロー的な主人公の設定が、割と早い時期の作品と似ていると思う。本書の主人公は、単純にヒーローとは言いにくい言動をするが、後の犯罪小説でも、その辺はよく似ている。ただ、本書の語り手は、彼とたまたま行動を共にすることになっただけの人物なので、主人公は外側からしか描かれないから、彼の内面は、謎めいた言動としか見えて来ない。犯罪小説では、主人公の考えるプロセスなども、見えるように書かれていることが多いので、どういう人物なのかというのが分かりやすく、その辺は結構雰囲気が違う。本書の主人公のいかにもハードボイルド的な雰囲気は、後年の作品ではあまり見ないものかな、という気がする。
いかにも、ペーパーバックらしい小説、とは言えるのかもしれない。とにかく、主人公が格好いい小説。それが本書の一番の魅力だと思うので。

訳者があとがきで触れている、後年の作品に通じる個性的な悪役という点については、同感するけれど、本書では、早い時期の作品に近い、まだ比較的単純な造型だと思う。プロットがしっかりしている所も、そんな感じ。のちのレナードの小説で感じるつかみどころのなさみたいなところまでは(訳者が「ナックルボール的魅力」と表現している部分だと思う)、本書ではまだ見えていないような気がするのだけど。

なお、併録の短篇は、「オンブレ」の8年前(1953年)に書かれたものとのこと。こちらは、短い小説ということもあり、ごく単純な娯楽小説。素直に面白く読めた。

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感想「岳飛伝」15

「岳飛伝」15 北方謙三 集英社文庫
全体としては、完結へ向けて、最終決戦の筋書きを着々と進めてるという所だと思うけれど、相変わらず落ち着きどころは見えない。
韓成とか褚律(ちょりつ。「褚」は機種依存文字らしいので)とか、ここへ来て、かなり大きい存在として描かれていて、最終局面に向けて、何らかの鍵を握りそうな気配があるが、著者は、彼らを最初に登場させた時点で、これほどの存在としては構想してなかったんじゃないかな、という気がする。もっとも、登場人物が自分で育っていくようでないと、ここまで巨大な小説は成り立たないだろうなと思う。
この巻の終盤の舞台になる雄州については、関勝を思い出したけれど、もはや、遠い昔の話だな。そのあたりのエピソードが言及されるかなと思ったけれど、とりあえず今回の巻にはなかった。関勝は、同等っぽい他の登場人物に比べると(呼延灼とか)、それほど力を入れて描かれなかったキャラクターという印象がある。個人的には、結構好きだったんだけど。
胡土児と絡む蒙古の若者は、テムジンかと思ったんだが、そうでもないのかな。
まあ、あと2冊だし、これから一気にいろんなことが、片がついていくんだろう。

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「ホット・ロック」

1972年の映画。HDDに溜めてあったもの。
確か、ずっと昔に一度、テレビで見た記憶があるが、今回見ていて、内容を全然思い出せなかったから、記憶違いかもしれない。一方で、見た覚えがあるのに、なぜテレビ放映を録画したかも、よく覚えてない。ちなみに2014年に録画したもの。

監督はピーター・イエーツ。主演はロバート・レッドフォード。共演は、ジョージ・シーガルなど。ちなみに、オープニングのクレジットを見ていると、ゼロ・モステルという俳優が、共演者の中では特別扱いされてる感じ。アメリカの著名なコメディ俳優だったらしい。
原作はドナルド・E・ウエストレイクのドートマンダーもの第1作で、とても好きな小説だったが、読んだのはもうずいぶん前なので、細部を覚えてない。泥棒の一味が、同じ宝石を何度も盗まないといけない羽目に陥る、スラップスティックな小説で、大笑いしながら読んだのは覚えているが。
なので、あくまでも印象レベルの話になるけれど、この映画は、ニューヨークを舞台にした、都会的な軽いコメディという感じだが、原作はもっとコメディ色が強かったと思う。そもそも、主役のドートマンダーは、いつもツキに見放されている、もっと惨めな感じの男で、そういう主人公が逆境でジタバタもがくのが、このシリーズのコメディとしての面白さなんだが、ロバート・レッドフォードみたいに格好いい俳優が演じてしまうと、あまり雰囲気が出ないよな。一応、映画の話も、そういうシチュエーションに、なってはいるんだけど。
ニューヨークの街を舞台にした画面の作りそのものは、好きなタイプの映画だけれど(音楽も、クインシー・ジョーンズで、はまっている)、コメディとしては、そこまで面白くない、という感じ。ドートマンダーの仲間のケルプやスタンも、原作ではマンガみたいな笑える登場人物だが、実写映画でリアルに演じられてしまうと、小説で読む時のようなバカバカしさがいまいち出て来ない。

それから、バカバカしさという点では、ドートマンダー一味が仕掛けるいろいろな犯罪計画は、それはいくらなんでも無茶では、と思える類のもの。70年代初期のアメリカの警察って、まだ随分のんびりしていたのね、と思ってしまう。単に時代が違うというだけかもしれないが、そういう所も、ちょっとリアリティの無さを感じてしまって、あまり乗れなかった。全然覚えてないんだが、原作はどうだったんだろうな。まあ、小説の描写と実写映像のリアリティというのは、全然別物ではある。

脚本がウィリアム・ゴールドマンなのを見て、そうだったんだ、と思った。この作家は、小説家としてはとても好きな人。
好きになってもいいはずの要素が、これだけあるのに、今一つの映画としか思えないのは残念。録画してあった理由は、そういう残念な印象があったから、見直してみたいと思った、ということじゃないかな。で、見直した結果も、やっぱり残念だった、と。

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感想「これで古典がよくわかる」

「これで古典がよくわかる」 橋本治 ちくま文庫
日本の古典というのがどういうものかというのを、わかりやすく説明した本。原著は1997年、文庫版は2001年の刊行。
ちなみに、前半部は主に、古典そのものを、わかりやすく説明したわけではなくて、平安時代以前の古典が、なんでとっつきにくいかというのを、わかりやすく説明している内容。単純に言っちゃえば、平安時代以前の古典の書き言葉は、今の日本語とは違っているから、ということなんだろうと思うが、それで合ってるかな。

要するに、日本語を書き表すにあたって、元々は中国から貰ってきた漢字を使っていたが(万葉仮名)、それが不便なので、漢字から派生したひらがな・カタカナを使って書き表す段階を経て、現在の表記に通じる、かな漢字混合文にたどりついた。だから、かな漢字混合文より前の文章は、読みにくくって当たり前だと。納得しやすい説明だと思う。
で、何が書いてあるかわかってみれば、今時の日本人とそう大差ないことを書いているに過ぎないので、そんなに分かりにくいものではないよ、と。この辺に関しては、近頃、日本の古い絵画の展覧会に行って、絵巻物などを見ると、これって今時のマンガと大差ないんじゃない?、と感じることが、あまりにも多いので、日本人の考えることというのは、昔から大して変わってないんじゃないかと思うようになっているから、素直に、そうだろうなあ、と受け止めた。源実朝って、そういうことを書いていたのか、と思うと、急に身近に感じられたりする。

書き言葉の表記の問題については、しばらく前に読んでいた、田中克彦の漢字廃止論に通じるものがあると思う。別に橋本治は漢字廃止論を語っているわけではないが、日本語を書き表すためには、それに向いた文字体系がある、という話であり(かな漢字混合が読みやすいと言っているから、漢字廃止論ではないよな。まあ、そもそも、そういう文脈の話をしているわけではない)、漢字というのが、どれだけタチが悪い文字か、ということも書かれているので。

それはそれとして、古典というのが、難しく重々しいものであるというイメージが形作られたのは明治時代だ、というのは、よくわかる。明治の新政府というのは、自分たちを権威づけるために、いろんなものをねじまげたんだよね。
江戸時代に、自分たちが抑圧されていたと思っていた連中が、天下を取った勢いで、偉そうに振る舞ったというのは、分かりやすい話ではあるけれど、それが原因で、日本はおかしな国になって、1945年に滅亡寸前まで行った。
そこで一旦はリセットされたけれど、執念深く生き残って、無反省に明治時代を賛美しようとしている連中が、また今、のさばっている。明治時代が、それ以前に比べて、すべてダメだったとは思っていないが、間違いなく、手放しで賞賛してよいような時代ではなかった。
こういうテーマも、結局、そういう所に行きついてしまうんだな、という感じがする。根拠がないもの、反省がないものは、きっちり批判していないといけない、ということだと思うんだが、今の日本は、国レベルでそういう所がまるでダメになっているよな。

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