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感想「コックファイター」

「コックファイター」 チャールズ・ウィルフォード 扶桑社ミステリー
1962年刊行の小説。ただし、訳者あとがきを読むと、1972年に改訂版が出ていて、本書の底本はそちらとのことだから、1972年刊と言った方がいいのかもしれない。
翻訳が出たのは今年の5月。扶桑社ミステリーはウィルフォードをよく出してくれるな、と思ったが、これも訳者あとがきによると、訳者の持ち込みだったとか。とはいえ、ウィルフォードを沢山出している扶桑社ミステリーだから、訳者も持ち込んだんだろうし、扶桑社だから出してもくれたんだろう。


本書が刊行された当時のアメリカ南部を舞台に、闘鶏に全人生を捧げた主人公を描いている。当時のアメリカでの闘鶏がどのようなものであるかを、マニアックに描きこんだ、闘鶏小説としか言いようのない作品。少なくともミステリではない。
主人公を筆頭に、あくの強い登場人物だらけな所は、いかにもウィルフォードの小説らしいが、ストーリーの骨格自体は、それほど特別なところはなく、扶桑社ミステリーから比較的近年に出た「炎に消えた名画」や「拾った女」のような、仕掛けでうならせるような小説ではなかった。本書の最大の特徴は、あくまでもマニアックな闘鶏の描写。もっとメジャーな題材であれば(野球とか、カードなどのポピュラーなギャンブルとか)、こういう小説もあるよね、という気もするのだけれど、本書を読む限り、当時のアメリカでも決してメジャーなものではなかったと思われる、闘鶏という奇妙な世界を、ここまで描き切ったというところに、この作家のカルト性の真骨頂が見える、という感じ。
もっとも、これが著者自身の闘鶏への愛情から来ているのか、あくまでも小説の題材としてのものなのかはわからない。闘鶏に打ち込む登場人物たちの、かなりグロテスクな描写を見ると、いくらか揶揄的な意図が感じられるような気もしないではなく、そこはかとなく底意地の悪さが感じられるようでもある。本当にそうなのだとすれば、やはり後者かもしれない。
ちなみに主人公は、周囲の人間の言うことには全く耳を貸さない男。信念を持っているといえば聞こえはいいが、あらゆることを自分に都合よくしか解釈しない偏狭な人物。ただ、著者が彼を、殊更に肯定的、または否定的に描いているという感じはしない。そういう男の生き方を、そのまま描いているという感じ。闘鶏に出場させるニワトリの育成や訓練の過程、試合の展開などの綿密な描写は、スポーツのドキュメンタリーを読むような真に迫ったもので、引き込まれるのだけれど、主人公の描き方は、小説のそうした内容に合っているかもしれない。
なにせウィルフォードのことだから、細部まで描きこまれた闘鶏の風景も実はフェイクだよ、みたいなことがあるのかも、と考えたりはするけれど、面白く読めた小説だったから、そうだとしても特に問題はないと思った。

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ヤクルト戸田球場(6/21)

昨日に続いて、今日も近所を通りかかったので、ついでに通り過ぎてみた。
土手上の人出は、前日よりは少し少ないかなという印象。それでも十分、多かったけれど。
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昨日も書いたことだけれど、正直、現時点でのヤクルト戸田の土手上での観戦自体は、基本的には、それほどナーバスになるようなものとは思っていない。屋外で吹きっさらしなので、換気の問題はないし。
もっとも、人が多いので、かなり密集した状態になっているのは確か。リーグが「無観客試合」を打ち出している以上、建前を尊重して、その場に留まって「観戦」する気はもともとないが、現場の状況を見ると、その場にいようという気にもならない。まあ、平日の試合だと、また違うかもしれないけれど。

それにしても、試合観戦に来てることをアピールしているファンがいるらしいが、チームが来るなと一応アナウンスしてるのに、行ってるのを公言するのは、ファンじゃないとアピールしてることになりゃしないのかな。
まあ、自分も、こんな状況だというのを記録に残しておきたいと思って、写真を撮るために通り過ぎてるだけとはいえ、ついでといってもわざわざ回り道して行っているわけなんで、似たようなものではある。だいぶ前から「偽のファン」を自称しているから、ファンとして認めてもらえなくても差し支えはないんだけど。

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ヤクルト戸田球場(6/20)

COVID19流行の影響で、開幕が延び延びになってたイースタンリーグは、昨日の6/19が開幕日だったが、ヤクルト戸田で予定されていたヤクルト対西武は、雨のため中止。ということで、今日のヤクルト対西武が開幕戦になった。もっとも、開幕から当面は無観客試合で開催ということだったので、試合を見に行くつもりはなく、あくまでも通りすがりで(^^;、球場をのぞいてみた。

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球場横の土手上は人が多かった。日頃に比べても、多めだった印象。
そりゃそうだろう、とは思う。土手上は球場内じゃないから、チームは排除できないし、土曜日の午後で、好天で、開幕戦で、ヤクルトの先発投手が話題のルーキー奥川とくれば、人が来ない方が不思議。「無観客試合」の建前がなかったら、もっと来てただろう(というか、自分も観戦してたはず)。
正直、いろんな施設が既に制限解除してる現状で、ヤクルト戸田の土手上みたいな場所での観戦に対して、そんなに神経質になる必要もないだろうと、個人的には思っているけれどね。ただ、イースタンリーグの統一ルールとしては、すべての球場がここまで開放的な空間ではない以上(というか、そもそもヤクルト戸田の有料席の狭っ苦しさ、鶏小屋感は、リーグでも屈指の酷さだし)、「無観客試合」とするのは止むを得ないだろうとも思ってる。

ちなみにスコアボード。3月に練習試合をのぞきに行った時、上段しか表示に使っていなかったので、無観客の練習試合だから、表示を少し控えたのかなと思ったんだが、今日も同じ形式だった。まあ、まだ無観客には違いないけれど、公式戦になってもこの仕様で表示してるということは、もしかして下段は昨年の洪水で壊れて、まだ修理出来ていないのかな? とりあえず上段を使えば何とかなるから、という判断か?

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個人的には、「無観客試合」の建前が取れるまでは、ヤクルト戸田へ「観戦」にはいかないつもりでいる。通りかかることはあるかもしれないけれどね(^^;

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「21世紀の資本」

6/13に見に行った映画。  公式サイト 

ベストセラーになった、経済的な格差の問題を扱ったトマ・ピケティの同名の本をベースに作られたドキュメンタリー映画。18世紀頃からの歴史をたどって、時代ごとの経済的な格差の構造を解説した上で、現代の急速に拡大しつつある経済格差の問題を論じている。
映画館が休止になる前の3月に、ちょっと興味を惹かれていた。映画館の再開後、まだ上映が継続されていたので、見に行ってみる気になった。

原著はかなり分厚いものだし、そもそもがデータを丁寧に集めて検証したところに、ピケティの功績があるということなので、しっかり内容を理解するには、多分、本で読んだ方がいいのだろうけど、結構大変そう。一方、この映画は、どこまできっちりピケティの主張が伝えられているのかは知らないが、かなりわかりやすかった。各時代の映像作品やポピュラー音楽などをふんだんに使っていることもあり、直感的にも頭に入りやすい作りになっていたと思う。

全体的には(もしかすると原著のダイジェスト的な内容になっていて、その影響もあるのかもしれないが)、主に英仏米の状況が論じられている印象で、アジアなどの諸国や、ヨーロッパ内でもドイツやスペインについては、あまり細かく取り上げられていないと感じた。ただし、少なくとも現在の状況についての解説は、今の日本の状況も的確に言い表していたという印象。
20世紀半ばに一旦は縮小に向かった格差が、現代では急速に拡大していることに対し、この映画は、そのメカニズムを解析しつつ、それは世界を破綻に導く方向だとして、富裕層への課税の強化など、政府による介入の必要性を主張する。非常に納得できる理屈なのだけど、(日本やアメリカは言うまでもなく)世界の多くの国の政府が、富裕層の便宜を図ることばかり考えている現在、それが実現に向かう可能性はあまり高くはなさそう。もちろん、民主主義国家であれば、国民がそういう状況を是正する行動を起こせばよいはずだけれど、少なくとも日本では、なぜかそういう動きに力強さが感じられない。もしかしたら、今のCOVID19流行による社会の変化が、今までと違った流れを生み出すかもしれないが、とりあえず動きを作り出すには、そういう風に考えている人たちが、しつこく言い続けて広げていくしかないだろうなと思う。

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感想「目の見えない人は世界をどう見ているのか」

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 伊藤亜紗 光文社新書
2015年に刊行された本だが、結構順調に版を重ねているようで、今回読んだのは、2018年に刊行された第15版だった。
子供の頃、かなり度の強い近視で、失明というものに、そこそこ現実味のある危惧を感じていた影響で、タイトルに書かれているような事柄には、以前からかなり興味を感じていた。

内容はタイトル通り。ただし、目の見えない人を、単なる身体障害者としてではなく、健常者とは異なるものが「見えている」人として、ポジティヴに捉えようとしているのが特徴かと思う。著者の専門は 美学と現代アートだそうで、 医療や福祉といった方面の人ではない。目が見えないのが日常生活する上での多大な障害であることは踏まえつつも、それを欠点ではなく一種の持ち味と考える、独特なアプローチをしようとしている。

目が見えない人の世界認識というと、一般的には、視覚以外の感覚が高度であるとか、点字を使うといったイメージになるが、そうした思い込みを崩していきながら、実際のところを解説していく。 また、五感と言われる感覚の中で、視覚を最上位とする考え方には疑問を投げ掛ける。
点字の認識率がそんなに低いとは知らなかった。確かにこんなに難しいものをよく使えるな、と思ってはいたけれど、実際にそうなんだな。
目が見えない人の美術鑑賞というのが、興味深かった。見える人が絵画を口頭で説明して、それを見えない人が自分の頭の中で再構成していくのだそうだが、そもそも美術作品の受け取り方は、人によってまちまちなわけだし、特に現代アートになると、何が描かれているのか、見える人にもよくわからなかったりすることも多い。描かれている色や線の情報だけを受け取って、それを再構成するというのは、そうした作品の鑑賞方法として、それほど特異ではないのかもしれない。また、そのように時間を掛けて作品と向き合うことは、見える人が展覧会で急ぎ足で作品の前を通り過ぎていくのに比べたら、ずっと深い作品理解になっているのかも、という気もした。

そういった話も含め、視覚を使えない人が、視覚情報からの錯覚や思い込みから解放されていて、違う物事の捉え方をするというあたりは、確かにと思うし、そこから前提が全く違う文化が生まれることもありえるのかもしれないと思った。ただ、あくまでも、多数の見える人の中で暮らす、少数の見えない人という状況では、そこまでの劇的なことは起きにくいかな。
それから、見えない人といっても、中途失明の場合は、見えていた時の記憶がある分、見える人との意識の違いは起きにくいはず。最初から見えなかった人たちの世界認識は、かなり違うのでは、と思うんだが、その辺はあまり触れられていない。

一方で、見えないことによる独特な感覚を強調するあまり、見える人の感じ方を限定的に捉えすぎている感もある。たとえば自販機やレトルトのギャンブルなんて、見える人でもやる人はやるだろう。

そうしたところに、いくらかの物足りなさは残ったが、目が見えない人の感覚について、認識を改めさせてくれる内容だったのは確かだと思う。
(2020.6.11)

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感想「魂の沃野」

「魂の沃野」 北方謙三 中公文庫
久々に読む北方謙三。2016年に刊行され、昨年文庫化。
加賀の一向一揆を扱った小説。加賀の一部を領有する地侍の一族の若者が、武士と本願寺門徒の間で揺れる時代の中で、成長していく姿を描いている。
元々、著者の意識としては、武士が日本を支配している時代に、武士ではない民衆がひとつの地域を約100年の間、統治していたという点に関心があったとのこと。その民衆の力の源泉が宗教だった以上、宗教とは何かという所にも踏み込まないいけない。主人公を、本願寺門徒とは距離を置きつつ、敵視することもない人物に設定して、宗教について考えさせながら話を進めていく。
「楊令伝」で方臘が描かれた時は、宗教勢力の得体の知れない不気味さが前面に出ていたように思うけれど、本書では、宗教勢力といっても、それを仕切る側には、世俗の権力と同じ欲得や権力争いの構図がある、というあたりを描いている感じがする。その宗教に突き動かされて戦場に向かい、殺戮される民衆という構図は同じだけれど、今回は「民衆」の側に入り込んで小説を書いている分、もう少し深い所まで踏み込もうとしたのかな
、という気がした。
とはいえ、宗教そのものに関しては、そこまで深入りはせずに話をまとめた印象。あくまでも主人公の挫折と成長の物語がメインだと思う。北方謙三の日本史を題材にした小説は、実在の人物を中心に置くことが多いが、本書の主人公は架空の人物で、その影響か、青春小説的な軽やかさがあるように感じた。「岳飛伝」の雰囲気に通じるものがあるのかもしれない。以前の小説とは、いくらか方向性が変わっていると思う。

日本史に題材を取って小説を書くのはそろそろ終わり、というような著者のコメントもあるようで。北方謙三の日本の歴史を扱った小説は好きで、ずっと読んできたけれど、ぼちぼちおしまいなのかもしれない。大陸を舞台にした描いた小説は、まだまだ続きそうだけれど。
(2020.6.6)

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感想「仏教抹殺」

「仏教抹殺」 鵜飼秀徳 文春新書
明治の始まりの時期に起きた廃仏毀釈についての本。 副題は「なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」。2018年の刊行。

廃仏毀釈は、明治の新政府が出した神仏分離令がきっかけだったが、政府はあくまでも、寺と神社を分離する指示を出しただけ。しかし指示を受けた側が暴走して、寺や仏像などの破壊に発展した、と書かれている。 破壊活動まで含めての明治政府の指示だったと思っていたから、これは意外だった。
著者は、激しい廃仏毀釈が起きた地域を訪れて、その痕跡をたどるとともに、なぜそういう暴走が起きたかという、メカニズムを考察している。
そもそも、神仏分離の基本的な考え方は、国家神道による国の統制を目論んだ中央政府が、江戸時代に徳川幕府による統治と深い関わりを持っていた寺を、神社から分離しようとしたもの。だから、過激な人間が、分離に留まらず破壊まで行ってしまうのは、それほど特異な現象とは思えないのだけど、寺院が破壊されたことで、それまで蓄積されていた地域の情報が失われたり、政府が廃仏毀釈を止める指示を出したりしていたということだから、暴走だったことは間違いないんだろう。

暴走にはいくつかのパターンがある。
今の視点で見て、一番考えさせられるのは、明治の新政府の意図を忖度した地方の行政官や民衆による、「自主的な」活動というパターン。国がそこまでやれとは言っていないのに、忠誠心を示したいあまり、率先して仏教に関わりがありそうな事物を破壊していった。権力への忖度によって、重要なものが失われるという構図は、今に通じるものがあるし、この国の病だなと思う。もちろん、こうしたことはこの国だけで起きているわけじゃないんだろうけど、他の国のことはよく知らないし、特に近年の、この国での権力への異常な忖度を日々見ているから、やっぱりそう思う。

それ以外では、寺が江戸時代に強い力を持っていたことから来た権威主義や腐敗が、民衆の反感を醸成していたということも多かったらしい。それまで寺よりも弱い立場に置かれていた神社が、力関係が逆転して強い行動に出た時に、民衆が寺を守ってくれなかった。著者は副住職も勤める仏教人とのことなので、寺の側に人心が離れる原因があった点を重くとらえて、現代人の仏教離れとも繋げて、考察している。もしかしたら、著者としては、こちらの方が、より大きなポイントなのかもしれない。ただ、個人的には、この辺については、権力は腐敗の元という以外の所には、あまり関心を持てない。仏教にしても神道にしても、宗教的なものを信仰するという気持ちを、自分はあまり持ち合わせないので。
また、このあたりを突き詰めていくと、廃仏毀釈は一種の宗教戦争みたいなものか?、という気もしてくる。自分は、文化財としての仏教関連の施設に対しては興味があるが、宗教施設としてはほぼ関心がないという立場なので、著者とは少し見方が違っているかもしれない。

それはそれとして、今の感覚からすると、永年伝わってきた仏像などの貴重な文化財が大量に破壊されたのは、なんてもったいない、ということになるわけだけれど、明治の初めにはまだそういう感覚は(少なくとも一般的には)なかったんじゃないかと思う。本書の冒頭で引き合いに出されているタリバンによるバーミアンの仏像破壊も、日本の廃仏毀釈は爆破のたった130年前の話に過ぎないと思えば、日本人が一方的にあれを野蛮な行為と非難することも、出来ないような気がする。
(2020.5.20)

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「白い暴動」

6/6に見に行った映画。映画館に行ったのは、3/15以来で、3ヶ月ぶり。もっとも、日頃から、それほど頻繁に映画館へ行ってるわけではないので、これくらいのインターバルは、それほど特別なことではない。
ただ、この映画に関しては、COVID19の影響で映画館が休館する可能性があるということで、4/8に見に行こうとしていたところ、ちょうどその日から休館になってしまって、見れなかったという経緯があった。先週、映画館が再開されてこれが続映になっていたのは有り難かったし、これは見に行かないと、と思った。

1970年代の後半、経済的に低迷していたイギリスで、NF(国民戦線)を中心にしたレイシズムが力を持ち、有名なロックスター(エリック・クラプトンとか、デヴィッド・ボウイとか、ロッド・スチュアートとか)までもが公然とレイシズム的な言動をするような状況になった。これに対抗して立ち上がったRock Against Racismの運動を、ドキュメンタリーとして描いた映画。
当時のRock Against Racismやパンクの事情に、自分が大して通じてるわけでもないので、内容に対する理解が追いつくのかという危惧もあったのだけれど、見に行ってよかった。当時のイギリスのレイシズムの状況がよくわかったし、アンチレイシズムの活動が結実した、結末のライヴのくだりは感動的だった。でも、映画の最後にテロップが出るように、レイシズムとの戦いは、まだ終わった話じゃない。そうであることは、まさに今起きている、Black Lives Matterの運動が物語っている。そういう意味では、見るのが2ヶ月遅れた結果、タイミングが、ぴったり合ってしまったわけだけど。
描かれている内容が、今の日本を思わせる場面があちこちにあって、暗い気分にもなったのだけれど、そこはやはり、この時、イギリスで行われたように、日本でも、レイシズムやいろんな差別的な動きと戦っていかないといけない、ということなんだろうと思う。

それにしても、自分自身が1970年代の後半にイギリスに抱いていたイメージでは、経済があまりうまくいっていないにしても、音楽に関しては、もっとポジティヴなものが発信されていると感じていた。パンクが社会の混迷と連動しているという話も、聞いていないわけではなかったけれど、なにぶん、実感がなさすぎた。
結局、同じ国の中でも、レイシズムのようなものに自覚的で、戦っている世界と、そういうものに気付かず、無縁に過ごしている世界が並存しているということなんだろうと思う。それは今の日本を見ていても、容易に分かる。というか、こうした分断は日本だけの現象ではない、というのがよくわかった気がする。この映画は、気付いていない問題意識のない層に、どうやって気付いてもらうかが第一段階だと言っているように感じた。

それはそうと、映画の中でインタビューを受けている人物(Redだったかな)の背後の棚に、アフロ犬のぬいぐるみらしいものが見えていて、ずっと気になっていた(^^;。あれは本当に、アフロ犬だったんだろうか。

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感想「タコの心身問題」

「タコの心身問題」 ピーター・ゴドフリー・スミス みすず書房
タコには、人間とは違う進化をした心や知性があるのでは?、という本。副題は「頭足類から考える意識の起源」。原著は2016年に刊行され、邦訳は2018年。
ポイントはタコ(やイカなど)を含む頭足類は、進化の非常に早い段階で、人間を含む脊椎動物と分かれたという所。脊椎動物が心や知性を獲得する前の段階で分離しているので、頭足類がそうした能力を持っているなら、それは脊椎動物とは別のプロセスで獲得したことになり、異なる種類の知性ということになる。ある意味、地球外の知的生命体に近いイメージ。
冒頭の部分に書かれていた、その辺の引きの強さにひかれて、読んでみることにした。

中の方まで読んでみると、心・知性といっても、それほど高度なもののことを言っているわけではなく、せいぜい犬や猫のようなレベルの話なので、地球外の知的生命体というイメージからは、かなり離れてはいる。そうは言っても、違うプロセスで獲得され、脊椎動物とはかなり異なっている(と思われる)知性と、人間が(単純なものとはいえ)コミュニケーションを取れるというのは、ずいぶんロマンのある話なのは間違いない。
タコやイカの生活や行動様式、知性の獲得も含めた地球上の生物が進化してきたプロセスなどが、丁寧に説明されている。専門的な所にもだいぶ踏み込んでいるので、難しい部分もあったが、おおむね興味深く読むことが出来た。それにしても、タコやイカに、(心や知性は別としても)こんなに高度な能力があったとは知らなかった。

しかし、タコやイカにすらそんな力があると知ると、そうした生き物を殺して食っていることを、改めて考えないわけにはいかないと思った。自分はベジタリアンじゃないし(実際のところ、植物にもある種の知性があるんでは、という説もあるから、ベジタリアンならいいのか?、という疑念も少しある。なお、植物の知性については、本書でも軽く触れていた)、自分が生きていく必要から考えても、肉食をやめようとも思っていない。それが食物連鎖というものだろうし。でも、生き物を殺して食うことで、自分が生きてるという意識を持ち続けることは、やっぱり必要なんじゃないかとは考える。

そして本書の締めくくりは、脊椎動物や頭足類の知性を育んだ海が、人間による環境破壊で、取り返しのつかない状態に変質してしまうことへの危惧。具体的な原因としては、汚染物質などの流入と並んで、海洋生物の乱獲もあるわけだから、そういう意味でも、生き物を殺して食っているということの意識は必要だろうと思う。
(2020.5.14)

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