感想「ピラミッド」

「ピラミッド」 ヘニング・マンケル 創元推理文庫
クルト・ヴァランダーものの短篇集で、長篇第1作「殺人者の顔」よりも前の時代を描いた中短篇5作を収録。ただし、書き始められた時期は、長篇第5作「目くらましの道」の後だったらしい。原著が出版されたのは1999年で、長篇第8作「ファイアーウォール」の後。本当は、これでシリーズが終了する予定だったとのことだが、実際はその後も続刊が刊行された。
なお、本書収録作品中で一番長い「ピラミッド」などは、短めの長篇と言っていいくらいの分量がある。

書かれた時期を考えれば当たり前だけれど、初期作よりも後期の作品に雰囲気が似ている。初期作のヴァランダーは、もうちょっとマヌケでずっこけたキャラで、そこに面白味を感じて読み始めたんだが、本書ではそれ以前の時期が描かれているのに、後期作のように、色々欠点はあるけれど、職務に関しては有能で真面目な(もしくはそういう風になろうとしている)警官に見える。

背景になっている時代が古いからなのか、スウェーデン社会そのものの病理は、後期の長篇ほど、深刻には描かれていない感じがする。予兆は見え隠れしているけれど。
内容も、事件の背景よりも、事件そのものを描くことに力点があるものが多いように感じたが、この点についても、それほどひねったプロットがあるわけではなく、捜査手順をこなしていくうちに自然と真相が見えてくる、という感じ。
おそらく、本書収録作で著者が一番力を入れて描いているのは、ヴァランダーの人生のうつりかわりなので、事件や社会情勢は、それを描くための重要な要素ではあるものの、あくまでも背景なんだろうと思う。その分だけ、読みやすくなっているようには思えるが、純粋なミステリとしての面白さは今一つかもしれない。
それでもシリーズの読者にとっては、欠かせない本だと思う。ヴァランダーだけでなく、レギュラー的なその他の登場人物も軒並み登場してくるし、彼らの昔の姿は、シリーズの愛好者には興味深いはず。なかなかピンと来にくい、ヴァランダーと父親や元妻とのややこしい関係も、本書を読むと、分かりやすくなってくるような気がする。
(2018.4.28)

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感想「折りたたみ北京」

「折りたたみ北京」 ケン・リュウ編 ハヤカワSFシリーズ
中国系アメリカ人作家による、現代中国SFのアンソロジー。タイトルの面白さに引かれて読んでみた。

日頃そんなにSFを読んでるわけではないから、「中国SF」はどういうもの、みたいなことを、あれこれ言えるだけの知識は自分にはないと思う。だから、その辺は置いておく。
収録されている作品の内容そのものは、おおむね、普遍的な(ある意味、既視感のある)SFと感じたけれど、中国が舞台で登場人物の大半が中国名、という作品が大半を占めるところには、やはり目新しさや新鮮さを覚えた。
もちろん、目新しさだけでなく、魅力のあるものが多かった。SF的な道具立てにあまり依存しない、日常の延長のような近未来を舞台にした、人間性をテーマにした作品が多かったように感じたし、おかげで、それほどSF愛読者というわけではない自分が馴染みやすかった、というのはあると思う。
また、複数の作品が収録されている作家が多く、それぞれの作家の持ち味について、より理解が深まる効果があったように思う。このあたりは、現代中国SFに入門しやすくための、工夫だったのかな。

中国はああいう政治状況の国だから、「沈黙都市」あたりを読んでいると、こんな小説を書いていて大丈夫なんだろうか、と思うんだが、どうなんだろう。抑圧的な未来社会が描かれているというだけなら、中国だけのことではない普遍的なテーマだし、日本の今の状況を見ていると、日本だって遠くない将来、どれだけ酷いことになっても意外じゃないと思っているから、特定の国の状況を書いた小説ではないという感覚で、自分は読んでいたけれど、政府という存在が、作品をどう受け止めるかというのは、また別の問題だからね。
そういう綱渡りをしながら書いているのだとすれば、それはある種、尊敬に値すると思うが。

収録された作家は、どれも印象的だったが、一人挙げるなら陳楸帆かな。中国のウィリアム・ギブスンと言われてるそうで、確かにそんな雰囲気がある。まあ、おれが今まで読んだ中で、一番好きなSF作家は多分、ウィリアム・ギブスンのわけで…(^^;)。
ちなみに、本書を読むきっかけになった表題作は、いかにもSF的なアイディアを中心に置きながら(これは結構感心した)、アイディアそのものよりも、それを通して見えてくる中国社会の構造や、そこに生きている人たちの姿を描くのが主眼と感じたし、先に書いた通り、そういう傾向はこのアンソロジーに収録された作品に共通して言えると思う。
(2018.4.14)

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感想「アベルVSホイト」

「アベルVSホイト」 トマス・ペリー ハヤカワ文庫
いまさら、トマス・ペリーの新作(原著は2016年刊)が邦訳されるとは思ってなかった。17年ぶりの翻訳だそう。

警察官上がりで凄腕の私立探偵・アベル夫妻が、迷宮入りしかけている1年前の殺人事件の調査を依頼され、乗り出した途端に、命を狙われ始める。犯人は謎めいた男に雇われた凄腕の殺し屋・ホイト夫妻。
そういうわけで、「アベルVSホイト」。原題は後半以降に出てくるネタ。だからといって、ネタバレというほどのことでもないが、邦題の方がいいような気はする。

ディテールにこだわった、プロ対プロの厳しい駆引きを描いている所は、この作家の持ち味。女性の存在感が強い所もそう。夫婦同士の対決の構図だけれど、どちらも妻の方が比重が高いように思えた。
ホイトとアベルの対決は、緊張感があって読みごたえがあるが、事件の背景が見え始め、対決の構図が緩んでくると、話そのものも、すこし緩んできたような気がした。事件の真相が、案外軽く見えたせいだと思う。こちらの話はこちらの話で、もっと書き込んで、別の小説に仕立てることも出来たし、その方が面白かったんじゃないかなと思った。
そういうわけで、中盤まではかなり面白かったが、終盤はやや拍子抜けした。ただ、次々人が死んだり、結構血みどろになる話の割には、後味はすっきりしている。それも、これまでに読んだ、この作家の作品には共通して言えることで、いまいち強い印象が残りにくいという意味では短所なんだろうけれど、いやな感じが残らないのは長所だと思う。

チャウセシク独裁政権下のルーマニアで、国が子供を虐待していた話が少し絡んでいる。昨年末に読んだジャック・カーリイの「キリング・ゲーム」でも、この題材は取り上げられていた。アメリカで、この件がクローズアップされた時期があったのかもしれない。
(2011.4.5)

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感想「ドロシアの虎」

「ドロシアの虎」 キット・リード サンリオSF文庫
1973年刊行の長篇小説で、邦訳刊行は1984年。
20年以上前に古書で入手したが、読まずに放ってあったもの。

主人公のドロシアは、少女時代にアメリカの地方都市に母親と流れ着いて、底辺の暮らしをしていた女性。成人して有力者の息子と結婚し、その土地の中流階級の保守的なコミュニティに所属しているが、少女時代に仲間だった男が殺された事件をきっかけに、中流階級を取り繕っている外面と、過去を引きずっている内面(「虎」のイメージがその象徴として現れる)のギャップに、苦しめられていく話。
とりあえずSFではない。ミステリでもなく、そうしたジャンル小説ではない。さすがサンリオ「SF」文庫。

いろんなテーマが重層的に取り扱われていると感じるが、中心にあるのは、子供が大人になる、ということではないかと思った。それも二つの面があり、ひとつは、子供の頃に思い描いていたことが、大人になって、現実を目の前にすることで消えていく、というあたり。もうひとつは、子供が敏感な感受性で抱くような性質の不安感や罪悪感を、大人は忘れる、もしくは共同幻想の中に逃げ込むことで、忘れたふりをする、ということ。そうでないと、精神が耐えられなくて、生きていけないから。結末でドロシアが見つける逃げ道が、要するにそういうことで、だから、そのあたりをメインテーマと考えていいんだろうと思うんだが、そこに至るまでのドロシアの苦悩(読んでいて、実感として、とても共感してしまった)の激しさに対して、その逃げ道があまりにも簡単に提示されているように見えるので、何だか拍子抜けしてしまった。

ただ、著者の意図としては、別にそうあるべき(「大人」になりましょう)と言っているわけではなく、そうでなくては生きにくい世界の現実を描いている、ということだろうと思う。
裏を返せば、誰もがそういう罪悪感や不安感を押し隠しながら生きている、ということでもあり、ドロシアの救済も、誰もがそうなんだと気付くことが、ひとつのきっかけのわけだから、このように解釈するのは、それほど間違ってはいないと思う。

結末の部分で少し戸惑ってしまった以外は、ドロシアに強く共感したこともあり、強く心に迫るものを感じる小説だった。というか、結末で戸惑っってしまったのも、ドロシアの苦悩への共感が強すぎたせいかもしれない。
(2018.3.11)

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感想「岳飛伝」17

「岳飛伝」17 北方謙三 集英社文庫
北方謙三の「大水滸伝」全51巻の最終巻。
こういう形で終わらせたのか、という感じ。史実からは完全に離れてしまったけれど、小説としてはこれでいいんだろうと思う。気持ちよく終ってくれたし。
もっとも、南宋については、岳飛と秦檜の会談のくだりを読むと、史実はこういうことになってるが、実はこうだった、みたいな説明が、ギリギリ可能な結末になってはいるのかもしれない。よしながふみの「大奥」みたいな形で。
とはいえ、金と、金が支配している漢民族の地域に関しては、そうした取繕いはほぼ不可能なレベルの史実改変じゃないかと思う。こちらに関しては、実はこうだった的な説明を想像させるような記述がないのは、そのせいかもしれない。インドシナ半島への植民についても、ほとんど史実とは関係ない所で、話が作られているような気がするし、いまさら史実との整合なんてことは、ほとんど考えられていなかったかな、という気はする。

梁山泊と金の最終決戦は、必要以上と思えるほど、陰惨なものだけれど、戦いが完全に終結したということをはっきり示すためには、これくらいの明確さが必要だったか、という気はした。それと、「岳飛伝」の終盤に目立ってきた、「戦」は「殺し合い」であるという視点の表れでもあったのかもしれない。沙歇が貧乏くじを引いたかなとも、思わないではないが。

で、全51巻は完結したけど、やっぱりチンギス・カンの話(「チンギス紀」)へ続いて行くんだね。そこには胡土児が重要な役割を果たすのだとか。そんなことじゃないかと思ってはいたが。
「岳飛伝」の結末時点で、中国の状況が史実から離れてしまっている中で、モンゴルが中国に向かっていく過程をどういう風に描くのか、興味津々だけど、文庫が出るまでは読まないので(北方謙三の小説は、個人的に、そういうルールにしている)、いつごろ読めることになるのかなと。まあ、先々の楽しみにしておく。

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感想「岳飛伝」16

「岳飛伝」16 北方謙三 集英社文庫
全17巻のラス前。さすがに終了目前の気配が濃く、大規模な戦闘の連続で、日常的な風景はほぼ描かれていない。
また、戦闘の場面は、英雄同士の闘いというようなロマン的な要素が意識的に薄められて、ただの大規模な殺し合いに近いものとして描かれている感じがする。大量の人間が、単なる人数として死んでいくという描き方を、著者が意図的にやっているんじゃないかと感じる。以前は、もう少し、ひとりひとりの姿が感じられるような雰囲気で描いていたように思う。
しばらく前から思ってることだけれど、戦の位置付けが、以前とは変わってきているように感じる。多くの登場人物から、戦に対して懐疑的な言葉が出てくるのも、その表れじゃないかな。もはや、戦のために生きている人物のようだった兀朮ですら、戦闘に倦んでいるように見えたりするし。

それにしても、万単位の人間が戦闘で死んでいく場面が度々描かれるが、リアリティという点ではどうなんだろう。中国は巨大で、人がいくらでもいるというイメージは確かにあるが、これほどの人的な消耗は可能なんだろうか。梁山泊側に半端でない数の兵士が度々志願して来る点についても、本当にそんなことがありえるのかなと思う。小説を成立させるために、現実性には眼を瞑っているのかな。
正直、場面がかなりパターン化し始めている感じもする。話を進めるために欠かせない中心的な人物を、副官が身代りになって救う場面とか、またか、という感じで。
ストーリーの要請で、無理な展開を作ってるかなあと思うことが、さすがに増えてきていて、そういう意味でも、このシリーズは、そろそろしまい込む頃合いかなと思ったりもする。

最終巻では、どれくらい綺麗に話を終らせているんだろうか。
(2018.3.8)

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感想「ベンドシニスター」

「ベンドシニスター」 ウラジミール・ナボコフ サンリオ文庫
1986年に邦訳刊行された時に入手したが、読まずに放ってあったもの。原著は1947年の刊行。

独裁者の支配が急速に進行する国で、追い詰められていく主人公を描いた小説。世界的に有名な哲学者である主人公は、独裁者の少年時代の同級生だったこともあり、国への協力を要請されるが、それを拒み続けることで、状況がどんどん悪化していく。

全体主義の恐怖を戯画的に描いた小説と思えるが(何となく「未来世紀ブラジル」を思い出しながら読んでいた)、著者自身はそこは重要ではなく、主人公が息子に対して抱く深い愛情が主要なテーマ、という趣旨のことを、「序文」(巻末にあるが)に記している。社会について描いた小説に見えるだろうが、そうした小説ではない、と言っている。
どこまで本心なのかは知らないが、そうなのかもしれないとは思える。確かに小説自体は、社会の在り方よりは、個人に焦点が合っていると思う。主人公は小説の冒頭で妻を失い、残された息子を愛するあまり、一種の麻痺状態にある。その影響で、周囲の状況にあまりにも無関心だし、甘く見てもいる。結果として、それでしっぺ返しを受けるので、そういう無関心なスタンスを取ることに対する、なにがしかの批判的なニュアンスを含むのかも、とも思えるのだけど、そういうわけではないのだろうな。

ただ、やっぱり、今の日本の状況に重ねてみたくなってしまう小説ではある。反知性主義とか同調圧力とか、独裁者の人物像も、容易に今の日本の姿を思い起こさせる。

実際の所、この小説には、文学的な遊びの趣向が色々と取り込まれているから、社会批評というよりは、多分に趣味的な小説だということは分かる。ただ、こちらはそういう要素に対応する知識を十分に持ち合わせていないし、多用されている言葉遊びを翻訳で十分に理解するのも無理。著者の企ての大半が伝わってきていない状態で、その意図を正しく受け止めるのは困難だから、素養のない人間にとっては、著者の意図とは関係ない所で勝手に理解する読み方になってしまうのも、仕方ないかな、という気がする。

あるいは、ずれたポイントでも読めてしまうくらい、しっかりした内容を持つ小説と言ってもいいのかもしれないけれど。ナボコフは全体主義化したロシアを逃れ、行った先のドイツでは、さらにナチスドイツからも逃れて、アメリカに亡命した人物だから、本人の意図とは関係なく、こういう状況を描くと、ただの背景ではないリアリティが生まれてしまうのだろうなと思ったりする。
(2018.2.24)

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感想「ミスター・マジェスティック」

「ミスター・マジェスティック」 エルモア・レナード 文春文庫
「オンブレ」の訳者あとがきで村上春樹が、レナードのウエスタン風の現代小説の中で、推奨する作品として挙げていたもの。原著は1974年の刊行。邦訳は1994年で、自分が読んだのはその直後。再読は、多分、それ以来。

アリゾナでメロン畑を営む、ベトナム戦争帰りの主人公・ヴィンセント・マジェスティックが、地元のやくざとのいざこざをきっかけに、偏執狂の大物殺し屋に付け狙われる話。

ストーリーは単純。ややこしいことをあれこれ考えさせるような余地は、ほぼない。主人公と悪い奴らが、ウエスタン風な構図の中でひたすら戦う話で、比較的単純な話が多かった印象のある彼の初期の犯罪小説でも、ここまでシンプルなものはあまりないかも(ただ、初期の犯罪小説は、現時点でも未訳が結構あると思うので、その印象が正確かどうかは、なんともいえない)。しかも、場面がいちいち華々しい。序盤の護送車襲撃シーン、中盤の度重なる激しいカーチェイス、終盤の銃撃戦。訳者のあとがきに、レナードが書いた映画のシナリオがベースになっている、という記述があり、それを考えると、かなり納得出来る。いかにも映画的な内容ではあると思う。
悪役の造型に、いつものらしさは感じられるとはいえ、それ以外の登場人物は、割と類型的だし、主人公も単純なヒーローに近い。レナードとしては少し特殊な作品というべきなんじゃないかな。繰り返しになるが、邦訳紹介されていない初期の犯罪小説が相当数あると思われ、自分がそれを読んでいない現状では、その辺をはっきり言い切ることは出来ないけれど。
ただ、村上春樹は未訳作も読んでいるようだし、その上で本書を推しているというのを、どう考えたらいいか。確かに、単純明快に面白い小説なのは確かだし、それが推奨の理由と考えていいのかもしれない。もっとも、邦訳されていることも、理由の一部には違いないだろう。

「オンブレ」では、主人公を他の登場人物の視点から描いているので、主人公の内心が見えず、謎めいたハードボイルド的な人物に見えると感じたが、本書は主人公の視点もどんどん描かれていくから、そういう雰囲気はない。もし、同じような描き方をしていれば、この主人公も、メロン栽培に異常にこだわるストイックな人物に見える、のかな? あんまり、そういう気はしないが。ウエスタン的な構図はあるにしても、「オンブレ」とはかなり違う雰囲気の小説になっているのは間違いない。 ずっと単純で、ストレートな娯楽小説と言えると思う。
(2018.2.18)

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感想「ドクター・マーフィー」

「ドクター・マーフィー」 ジム・トンプスン 文遊社
1953年に書かれた長篇で、昨年邦訳されたもの。

財政難で破綻寸前の、アル中患者の療養所を舞台にした小説。資金繰りに頭を悩ます療養所を経営する医師、そこで働くスタッフたち、入院しているアル中患者たちが繰り広げるドタバタが描かれる。

サスペンスでもミステリでもない。トンプスンのその種のジャンル小説での傑作は、既に一通り訳されているというから、単純にトンプスンの名前から期待するような小説でないのは、ある程度予想していたけれど、ここまでとは思わなかった。先日読んだ「天国の南」は、終盤の雰囲気は少し違ったとはいえ、ストーリーとしては、過去に邦訳された小説に通じるものではあった。本書はそういうものでもない。
ただ、登場人物のフリークス趣味みたいな所は、紛れもなくトンプスンだと思う。登場人物は誰もかれも破綻しているし、それが戯画的に描かれている所に、らしさは見て取れる。とはいえ、だから何?、というのを、思わないわけにはいかない。自身がアル中で苦しんだトンプスンの姿が見え隠れしてくるようではあるけれど(最後の方に、自身をモデルにしたとしか思えない、アル中の作家も出てくる)、それをテーマとして突き詰めた小説にも見えない。狙い目としては、アル中を登場人物にしたドタバタ喜劇、ブラック・コメディといった所だったんだろうが、だとしてももう少し突き抜けたものがないと笑うこともできない。一般的な読者を対象とした、娯楽小説としては厳しかったんじゃないかと思う。

トンプスン的な雰囲気を僅かでも感じられればそれでいい、というような読者にしか、向かない小説じゃないかと思った。
(2018.2.15)

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感想「オンブレ」

「オンブレ」 エルモア・レナード 新潮文庫
レナードが、現代を舞台にした犯罪小説の前に書いていた、西部小説の代表作。未訳だったが、レナードの経歴が紹介されるときには、常に言及されていたから、ある種、幻の小説みたいなイメージを持っていた。原著は1961年の刊行で、今回、村上春樹の翻訳で、ついに邦訳。なぜ?、と思ったけど、村上春樹がレナードに思い入れがあったということらしい。彼がやりたいと言えば、出版社も、結構言うことを聞いてくれそうだし。
なお、短篇「三時十分発ユマ行き」が併録されている。

19世紀末のアメリカ西部が舞台で、白人とメキシコ人の混血として生まれ、幼い頃にアパッチ族に誘拐されて育てられた、複雑な出自を持つ男が、犯罪者の集団と対決する話。
ストーリーは必要以上にややこしくないし、ストイックな雰囲気の主人公は格好良くて、娯楽小説として、素直に面白かった。
ただ、必ずしも、単純にヒーローが悪者と戦う、という構図ではない。主人公は普通ではない育ち方をしているので、周囲の人間には彼が何を考えているのか、よくわからない。一方で、成り行きで彼と行動を共にする数人の人物も、それぞれ面倒な背景を抱えていて、利害関係や考え方の衝突が至る所に出てくる。西部劇映画からの連想で(というほど、西部劇映画も見てないが)、もう少しシンプルなヒーロー小説なのかなと思っていたが、意外に、複雑な内容を持っているように感じられた。特にアパッチ族の取り扱いについては、一面的な善悪で割り切れないものがあるように思える。そこに素直な面白さとは別に、小説としての深みも感じられる。内容が古びていないのは、そのあたりが理由かもしれない。
西部小説というのが、そもそもそういうものだったのか、それとも、西部小説の隆盛が終りかかった頃に登場したレナードの作品が、ジャンルの中で特殊な位置を占めるものなのか、その辺は知識がないので、わからないんだが、訳者のあとがきを読む限り、やはり主流のスタイルではなかったようではある。

レナードが後に書き始めた現代物の犯罪小説(現代物と言いながら、実は初期のものは、既に50年前の1970年頃だったりするんだが(^^;)との比較では、ヒーロー的な主人公の設定が、割と早い時期の作品と似ていると思う。本書の主人公は、単純にヒーローとは言いにくい言動をするが、後の犯罪小説でも、その辺はよく似ている。ただ、本書の語り手は、彼とたまたま行動を共にすることになっただけの人物なので、主人公は外側からしか描かれないから、彼の内面は、謎めいた言動としか見えて来ない。犯罪小説では、主人公の考えるプロセスなども、見えるように書かれていることが多いので、どういう人物なのかというのが分かりやすく、その辺は結構雰囲気が違う。本書の主人公のいかにもハードボイルド的な雰囲気は、後年の作品ではあまり見ないものかな、という気がする。
いかにも、ペーパーバックらしい小説、とは言えるのかもしれない。とにかく、主人公が格好いい小説。それが本書の一番の魅力だと思うので。

訳者があとがきで触れている、後年の作品に通じる個性的な悪役という点については、同感するけれど、本書では、早い時期の作品に近い、まだ比較的単純な造型だと思う。プロットがしっかりしている所も、そんな感じ。のちのレナードの小説で感じるつかみどころのなさみたいなところまでは(訳者が「ナックルボール的魅力」と表現している部分だと思う)、本書ではまだ見えていないような気がするのだけど。

なお、併録の短篇は、「オンブレ」の8年前(1953年)に書かれたものとのこと。こちらは、短い小説ということもあり、ごく単純な娯楽小説。素直に面白く読めた。

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