感想「はじめて話すけど……」

「はじめて話すけど……」 小森収 創元推理文庫
昨年末に出たインタビュー集。
書店で見掛けて、冒頭のインタビューの相手が、近頃名前を見掛けない気がしていた各務三郎だったことで、興味を感じて、買ってみた。他にも興味深い名前が入っていたこともあり。
ただしこれは文庫化で、元版は2002年出版とのこと。従って、収録されているインタビューも、新版に向けて追加された北村薫を除けば、全部それ以前のものだった。「近頃名前を見掛けない」ことには、何も関係なかった(^^;。
あとはまあ、新しい本を読まずに、昔話を読むというのも、いかにも年寄りくさい、後ろ向きな読書だなあ、という気もしつつ…。

ちなみに、書店で見た時に興味を引かれたインタビュー相手(元々、ある程度の関心のある人物)は、各務三郎の他では、石上三登志、和田誠あたり。法月綸太郎、北村薫もよく知っている名前だけれど、逆にどういう方向の話になりそうか想像はついたし、あまり期待が出来ないのではと思った。

各務三郎や石上三登志については、彼らが関わっていた(以前から自分が興味を持っている)界隈の昔話の面白さだけでなく、彼らの興味の持ち方、面白がり方という部分に共感を覚えた。この二人の文章は、今まで随分読んだけれど、少し鼻持ちならないと感じることが時々あって、無条件にフォローしていたわけではなかった。でも、このインタビューから見える彼らの考え方を知ると、そういう文章の背景が見えてくるような気がしたし、好感度も上がった気がする。いまさらではあるけど。
和田誠の昔話も、この二人と近い所にあるかな。
三谷幸喜が「作戦」映画について語るインタビューは、「作戦」映画の楽しさというのが感覚的に分かる気がするので、楽しかった。皆川博子の、太平洋戦争前後の本好き少女の読書履歴も興味深かった。太平洋戦争前の日本にも、実は、ある程度開明的な文化が育っていたのだけど、軍国主義とそれが引き起こした戦争によって抑圧されていったということが、近頃、結構語られるようになって、ドラマや映画にも描かれたりしているようなのだけど(ほぼ見てないが)、それを連想させるような部分があると感じた。戯曲の翻訳について語る松岡和子のインタビューは、役を演じる俳優の実感によって、翻訳がブラッシュアップされていくという話に、とても興味を引かれた。
面白く読めなかったのは、やはり法月綸太郎で、アントニー・バークリーの作品を中心にした本格ミステリ論なので、バークリーをほとんど読んでいない(読んだものも内容を忘れている)自分にとっては、全然見えてこない話だった。まあ、これは仕方ない。
北村薫のインタビューは、自分とは嗜好の方向性が違う人だなというのが、改めてよく分かったと思う(ある意味、各務三郎、石上三登志と逆のパターン)。

面白く読めなかったものもあるけれど、それでも総じて、読んでよかったと思う。小説や映画といったものに対する自分の嗜好や立ち位置的なものも、改めて確認出来たような気がする。

| | コメント (0)

感想「バッタを倒しにアフリカへ」

「バッタを倒しにアフリカへ」 前野ウルド浩太郎 光文社新書
2017年に出版された本で、2018年の新書大賞を取ったとか。本屋でもかなり目立つ表紙で、刊行当初からなんとなく気にはなっていた。今年の初めにたまたま手に入れて、しばらく寝かせてたが、ようやく読んでみた。

子供の頃に「ファーブル昆虫記」を読んだことなどをきっかけに、バッタを研究する昆虫学者を志した著者が、バッタの大量発生に悩まされているモーリタニアに渡って、バッタ研究で悪戦苦闘するいきさつを語るノンフィクション。
また、バッタ研究、舞台はモーリタニアというだけでなく、著者がポスドクで、研究者としての仕事の場を得るために苦闘する姿も描かれている。その三つの要素が絶妙に絡まり合っているし、著者の語り口の楽しさもあって、読みやすいし、引き込まれる内容だった。相当しんどい思いもしていることは、読んでいれば分かるけれど、語りのうまさで、辛い話にはなっていない。それだけでいいのか?という気もしないではないが、読み物としては正解だと思う。

バッタの生態は、それなりに興味深いし、モーリタニアという国は、名前も場所も昔から知っているけれど、それ以上のことはほぼ知らなかったから、そういう地域・土地柄なんだなあという知識が得られて良かった。
大学院を出て博士号を貰ったが、就職先がなくて、生活苦に陥っている人が多いという話は、近年、よく聞くようになっているけれど、具体的な実例を見せてもらった感じ。この著者は、最終的にはうまく立ち回れたわけだけれど、背後には、うまく行かなかった人たちが、たくさんいるんだろうなと思う。まあ、分野にもよるんだろうけど。
技術系の就職で、大卒なんか当り前で、これからは大学院を出て修士以上でないとダメ、みたいなことが言われ始めてた時期ががあったことを覚えてるけど、今はどうなんだろうな。

それにしても、モーリタニアに対する日本の援助が現地の役に立っていることが描かれている部分とか、著者の助けになる基礎研究者のための国内のいろいろな制度が書かれている部分とかを読んでいると、目先の損得勘定だけでは測れないものを、次々切り捨てていこうとしてる今のこの国のやり方の中で、こうしたことが、この先、継続していくんだろうかというのが不安になる。
(2023.10.3)

| | コメント (0)

感想「図像観光」

「図像観光」 荒俣宏 朝日新聞社
1986年に出た本。副題は「近代西洋版画を読む」。
3月いっぱいで閉店するという古書店(浦和の金木書店)に、たまたま通りすがって、店内を見ている中で見掛けて、興味を引かれたので、せっかくなので買ってみた。
著者の近世ヨーロッパで出版された版画本のコレクションを紹介する内容。精密に描かれている美麗な図版を眺めているだけでも面白いかなと思ったのと、西洋の絵には、描かれている構成要素にいちいち意味がある、みたいなことを聞きかじっているので、荒俣宏のことだから、その辺の蘊蓄も楽しめるかもと思って読んでみた。
その辺の期待は、一応、間違ってはいなかったと思う。「前口上」で著者も、画像を読み解いていく「観光」を意図しているという、本書の意図を語っている。荒俣の様々な知識の披歴は面白かった。ただ、図版を楽しむには、残念ながら版型が少し小さすぎたと思う。荒俣が、この絵はここがこうなっていて、みたいな説明をしている箇所も、図版が小さすぎて、いまいちよく分からなかったりした。やはり現物のサイズで見ないと、本当の面白さは分からないような気がする。
(2023.4.30)

| | コメント (0)

感想「大東亜共栄圏のクールジャパン」

「大東亜共栄圏のクールジャパン」 大塚英志 集英社新書
去年の3月に出た本で、興味を引かれて秋ごろに買ったけれど、内容が重そうで、なかなか読む気になれなかった。ようやく読んだ。

太平洋戦争当時に、当時の日本が大々的に行っていた宣伝活動について調査して論じたもので、著者は類似した内容の本もいくつか出しているようだけど、本書はその中でも主に海外に対する宣伝活動に重点を置いた内容ということらしい。国内向けのものについては、「大政翼賛会のメディアミックス」「「暮し」のファシズム」あたりで論じられているんだと思うが、読んでいないので…。
そちらを読んでいないのに、なぜ本書を手に取ったかと言えば、明らかに大失敗している現在の「クールジャパン」的なものが、太平洋戦争当時にもあったのか、という所に関心を引かれたから。

太平洋戦争下で、戦意高揚の宣伝活動が政府によって大量に、いろんな手段で行われたことは知っているけれど、それが「メディアミックス」という言葉でまとめることが可能なほど、体系的なものだったとは知らなかった。まあ、単に同時期に各メディアで行われたものを、どういう言葉でまとめるか、というだけのことかもしれないけれど、メディア間で連動していたのは確からしい。
にしても、読んでいて、その内容のおぞましさには気が滅入る。今の政府が、似たようなことをやっているのを、現に目の当たりにしているだけに、なおさら。
そうした日本賛美の宣伝活動を、海外(主に、朝鮮半島や満州、中国、東南アジア、南洋諸島といった、いわゆる「大東亜共栄圏」)に向けて、どういう風に展開していったかというのが本書のメインになる内容で、それが「クールジャパン」に例えられている。支配下地域の「未開の」人々は日本に憧れている的な、いかにも自分たちに都合のいい理屈を持ち出しているあたりは、確かに「クールジャパン」ぽいとは思う。
ただまあ、この当時の宣伝活動は、被支配地域への「日本」の高圧的な押し付けだし、現在の「クールジャパン」はあくまでも売込みだから、その辺は少し違うのかな、とは思った。推進している側のメンタリティは、それほど違ってはいないとしても。
他文化の人々に自文化を押し付けるというのは、本当にひどいことだし、強要できるような力関係がない現在、似たような感覚で推進しているのであれば、「クールジャパン」が失敗しているのは当り前だな。

著者の考え方は、現在の日本は、太平洋戦争下と本質的には変わっておらず、「戦後民主主義」でそれが見えにくくなっていたのが、上塗りが剥げて露出してきたのが現在だ、というもので(他でも読んだ覚えがあるが、本書の序章にそういうくだりがある)、確かにそう考えると、理解しやすい部分はいろいろある。
そういう今の世の中に対して、太平洋戦争当時にこういうおぞましい宣伝活動が行われていたこと、それに嬉々として、あるいは、圧力に抗しきれずにやむなく参加したサブカルチャーの人々がいたということを、こういう形で公開していくのは重要なことだと思う。著者は、自身がそういう業界に関わっているだけに、危機感も強いのだろうと思う(そういう趣旨のことが、本書の中でも書かれている)。

とりあえず言えることは、政府の宣伝に無批判に乗せられたり、追従してはいかんということだと思う。抵抗できる限りは抵抗する、疑ってかかるというのが、正しい在り方だと思うな。

本書は、著者があちこちに書いた文章を1冊にまとめたものなので、繰り返しの多さなど、ややまとまりのなさを感じる部分はある。また、先行して書かれた本との重複を避けている事柄があるために、読みにくい所もあるけれど、丹念に資料を探して調べた上で書かれている労作だと思うし、問題意識もよく伝わってくる。読んでよかったと思った。
(2023.4.9)

| | コメント (0)

感想「言語多様性の継承は可能か」

「言語多様性の継承は可能か」 寺尾智史 彩流社
「新版 欧州周縁の言語マイノリティと東アジア」というのがサブタイトル。2014年刊行の旧版に対して、改訂新版が2017年に出されたもので、著者の博士論文がベースになっているとのこと。

話者の少ない少数言語が淘汰され、絶滅に向かう流れが加速している現代で、少数言語を維持して言語の多様性を維持し続けることについて論じた本。重点的に取り上げられているのは、ポルトガルのミランダ語、スペインのアラゴン語、日本の「播州ことば」。
ちなみにミランダ語の状況については、同じ著者の「ミランダ語が生まれたとき」に、より詳しく書かれている。
なくなろうとしているものは、保護されるべきだろうと、割と簡単に考えていたのだけど、そこまで単純な話ではないということが、よく分かったように思う。
「ミランダ語が生まれたとき」に書かれていたこととも重なるのだけど、その言語が使われている国が保護に乗り出したとして(その段階まで進むこと自体、かなり大変だと思われるが)、それでめでたしとはならない。何を保護するのか、という大きな問題が控えている。
言語というのは、住んでいる地域がわずかに違うだけでも、同系統でも数多くのバリエーションが存在する。そのどれかを基準にして保護して、他は亜種として切り捨てるのか、全てを保護するのか。現実問題として、後者は限りなく困難と思われるけれど、とはいえ前者の場合、選ばれた保護対象の言語と、亜種とされた言語はどう違うのか、ということになる。
「保護」という考え方にも難しさがありそう。本来、残されるべきなのは、その土地に住んでいる人たちが日常的に使っている言語(母語、ということになるのかな)のはずで、だからこそ、全ての言語を残すのが本来の筋と思われるのだけど、「保護」という形を取る以上は、従来のやり方からすれば、文法や単語、正書法などを定めて、それに基づいて標準化されることになると思われる(そう考えれば、やはり数多くのバリエーション全てを保護するのは非現実的)。そのように規格化された言語は、日常的な言語という性格を維持できるのか。また、現実にはその地域の住民が、日常的には必要性から、もっと大規模に使われている言語を使っていて、少数言語は教科書に基づいた知識でしかないとしたら、それはその言語が残っていると言えるんだろうか。実際には必要性が希薄化してなくなりかけているのを、観光資源として無理やり残している、伝統工芸の保護みたいなものに、なってしまうんでは。
言語というのは、あくまでもコミュニケーションの手段だから、実質的にその機能が失われてしまったら、それはもう、残っているとは言えないのではないんだろうか。

そういうことを考えると、なくなりそうなものを残したいという、漠然とした願望だけでは、事態は進まないと思えてくる。少数言語を残していく積極的な意味を明確化しなければ、おそらく先はなさそう。
結局は、その言語を母語とする人たちの、残したいという意思にかかってくるように思える。
ただ、自分が今までに見た限りでは、少数言語を残すことの意味として挙がっているのは、少数言語の発生の起源をたどるため、少数言語の支えている文化を継承するため、といったあたりで、それは必要なことだとは思うけれど、実際の生活者が言語を存続させようと考える強いモチベーションにはつながらないように思える。今のような時代では、より多数の人々とコミュニケーションが取れることの方が重要と考える人が多いだろうし、そのためには、多数言語の方が圧倒的に有利なはず。

他の言語ではとても長ったらしい説明が必要な言葉が、ある言語では一言で表す言葉がある、みたいなことは、言語に関する本を読んだりしていると、しばしば目にする。それはつまり、その言語を持つ文化が、どういうものを重要視してきたかというのを意味しているはずで、その文化の固有性を示すものだと思う。
また、ある言語と別の言語では、中心的には同じ意味を持つ言葉であっても、意味の広がりが全然違っているというのも、実はかなりよくあることのように感じているし、そこも文化による視点の違いを示すものだと思う。
少数言語・言語の多様性が失われるということは、そうした異なった視点から物事を見る可能性が狭まっていくことになるから、それは人間にとってあまりいいことではないはず。とはいえ、そういうことも、生活者の日常的な関心事にはあまり関係がないように思える。
そう考えていくと、「言語多様性の継承」は、かなり困難なことのように思えてくる。

もちろん、著者はそんなことは全て理解した上で、結論には至らないとはいえ、本書の終盤で著者が行っているような、どういう形であれば言語多様性の継承が可能なのかという考察は、大切だろうと思う。
それから、仮に継承が困難だとしても、少なくとも、多数言語が少数言語を意識的に圧迫して、衰退を加速するようなことは止めるべきだと思う。たとえば「標準語」が地方の言葉を「方言」と規定して、そうした言葉の使用を蔑むようなことは、されるべきではない。それは実行可能なことだし、それによって少数言語の衰退は、止められないまでも、遅らせることは出来るはずだな。

| | コメント (0)

感想「正岡子規ベースボール文集」

「正岡子規ベースボール文集」 復本一郎・編 岩波文庫
本屋で見掛けて、ごく薄い本で、安かったこともあり、手が出た。
野球好きだったことで知られる正岡子規が残した文章から、野球について書かれたものを抜粋してまとめたもの。そんなに膨大な量があるわけでもないけれど、本当に野球が好きだったんだなあ、という気配が伝わってくる。
今年は野球が日本に伝えられて150年ということで、記念したイベントなども行われていたらしい。不覚にも、今年も終りが近いこの時期まで、全然知らずにいた。今年出た本書の帯には「野球伝来150年」というマークが付されていて、特に注記はないけれど、連動企画ぽいように見える。
正岡子規が野球に関わっていたのは、まさにその150年前だから、現代の野球好きとは、少しニュアンスは違うはず。メジャーなスポーツとしてではなく、アメリカから伝わって日の浅い競技の愛好者ということになるから、一種の物好きとも言えるかもしれない。ただ、書かれている内容を読んでいると、今の野球好きと、気持ちの在り方に大きな違いはないように感じる。むしろ、プロが存在していたり、野球に関連した情報があふれているわけでもなく、あくまでも個人の趣味のレベルと考えれば、より素直な愛情のようにも思える。
子規が野球のルールについてざっと説明している文章があって、明治の言葉で説明するとこうなるんだな、というのが、面白い。ひとつ、今と大きく違うので気付いたのは、ショートの守備位置がピッチャーとサードの間と書かれている(セカンドは二塁ベースのそばで守るらしい)。二三塁間に打球が飛ぶことが多いので、そこに守備の選手が入るという説明になっている。右打者が引っ張って打てば、確かにそっちに飛ぶものね。この説明がどこまで正しいのかは知らないけれど、ショートというポジションの発祥について、なるほど、そういうことだったのかな、と思わせてはくれた。
野球以外のスポーツと比較して、複雑で変化が多いので、観客にとっても楽しいと書いている部分がある。比較対象が陸上競技とか競馬とかに限られていて、野球以外の球技との比較は、テニス以外はないのだけど(まだ伝わっていなかったのかも?)、とりあえず野球のそういう面白さに関しては、自分も異論はない。
正岡子規を、同好の士?として身近に感じられる本だった。

| | コメント (0)

感想「「彼女たち」の連合赤軍」

「「彼女たち」の連合赤軍」 大塚英志 角川文庫
サブタイトルは「サブカルチャーと戦後民主主義」。
元版は1996年刊行で、この改訂新版は2001年の刊行。この著者が今年出した、「大東嘉共栄圏のクールジャパン」を入手していながら、何となく手が付かないままでいるのが念頭にある中で、これが家にあったのを何となく手に取ったら、興味深くて、すぐに読めてしまった。

「戦後民主主義」が変容してきたさまを、サブカルチャーの視点から読み解いていく、という内容。
自分は著者とほぼ同時代に生きて来て、サブカルチャーにずっと、それなりに関心は持ってはいたから、本書で言及されている事件や著作物の大半はある程度知識があるけれど、少女まんがにしても、社会評論にしても、村上春樹とかにしても、そうしたものの現物まではほとんど読んだことがないし、イメージで把握しているだけなので、著者が書いていることを完全に理解できているわけではないとは思う。
それでも、自分なりに考えたことを、とりとめなく書いてみる。

本書の軸になっているのは、タイトルが示す通り、永田洋子を中心とした、連合赤軍の女性メンバーたちの人物像と、彼女たちがどういう成行きで「総括」に巻き込まれていったのか、という点の考察。それを考えていく過程で、彼女たちと同世代の少女まんが家たちにも、「消費社会化」という共通した背景を見出していく、という感じ。おおざっぱに言えば、それをもたらしたのが「戦後民主主義」ということになるのかな。

1958年生まれの著者にとっては、連合赤軍は子供の頃仁あった事件という感じのようなのだけど、自分はさらに数年年下なので、それ以上に幼い頃の出来事。同世代の中では、そういうことに興味を持っている部類だと思うし、断片的な情報はそれなりに知っているけれど、やはり絶対的に知識が乏しいので、一連の流れをこういう風に理解できる、ということ自体が、新鮮に感じられた。

著者は、1960年代末から1970年代初頭にかけて起きた日本社会の変容を「消費社会化」と定義して、1972年をターニングポイントとしている。それで、「一九七二」という本を以前読んだことを思い出した。こっちの本は、自分には、社会評論というよりは、著者の懐古趣味の方が目立って感じられて、読んだ時は必ずしも肯定的にはなれなかったけれど、本書のような評論に接してみると、同じ現象を別の視点から描いた本だったのかな思えてきた。

ただ、本書はそこから先があって、1990年代初頭に大きな変化が起きたということも論じている。元版の刊行が1996年だから、リアルタイムに近い状況だったはず。当時の雰囲気の変化については、著者や、本書で紹介されている香山リカが語る違和感のようなものを、自分自身も感じた覚えがある。
自分なりに解釈すると、「戦後民主主義」でそれまでの拘束から解放された人たちが、「消費社会」を作り上げたのだけど、解放された中で自立的に生きていくことの面倒くささに疲れて、誰かに従っていれば済む解放される前の価値観(しかも、昔のことなので、ネガティヴな面を覚えていない、または理解していない)に魅力を感じ始めた、ということなんだろうか、と思えた。本書で書かれている、「国家」とか「母」とか「正史」というのは、そういうすがるための対象なんじゃないのかな。

とはいえ、誰もがそういう流れに乗っているわけでもないし、自分自身も、そういう流れに逆らって生きている、という自覚みたいなものがある。
そういう二つの流れがあることで、いろいろな対立が起きているのが今の状況じゃないかと思う。その辺は、この本が書かれた時よりも、状況はさらに深刻になっている気がする。その一方で、90年代以前の状況を知らない若い世代がどんどん増えてくるし、彼らには実感が伴わない分、この構図を理解するのが難しいかもしれない。

第II部「「彼女たち」の日本国憲法」冒頭に、安直な戦後民主主義批判に与したくないという趣旨の文章があるけれど、この辺で書かれていることは、以前から自分も思っていた。戦後民主主義の中でどういうことが達成されたのか、何が問題だったのかというところを何も検証せずに、「押し付け」の一言で、日本国憲法を単純に否定してしまおうとする考え方には、強い違和感を覚える。90年代以降にそういう主張が勢いを増す中で、「戦後民主主義」を知らない世代が育ってくるとしたら、すごく嫌な感じがする。双方を知った上で、どちらかを選択するのは自由だけれど、選択肢があることを知らないまま、流されていく人間が多数派になる社会が来るとしたら、それは悪夢。

もっとも、90年代以降の世代だって、決して一様なわけではないだろうし、この時代は、ある意味、そこまでの40年よりも激しく動いてきたという気もするから、この本で述べられているのとは違った所に、また別の対立軸があるんじゃないかな、という気はする。ただし、そこは改訂新版が2001年に出たこの本では、当然サービスエリア外だし、ここでそこまで話を広げても意味がない。

それはそれとして、本書は「彼女たち」を描いているので、フェミニズムに関わる論考も多く含んでいる。平塚らいてうについて書かれたくだりなどを読むと、外から見ていて、フェミニズムの運動の方向性がどうしてもばらけてしまうように感じる理由の一部が、この辺にあるのかもしれないなと思った。
ただ、著者は男性だから、同性の自分は、そういう風に考えられるのか、で済むけれど、書かれている内容について、女性の側からの反発があったりしないのかな、とは思った。
ついでにいえば、なぜ著者は、「ぼくたち」ではなく「彼女たち」を描いたのかとも、読みながら思っていたのだけど、ここについては旧版のあとがきに説明があった。本書のコアになっている連合赤軍への考察の中には、男性メンバーについての考察もあり、彼らの底の浅さを目の当たりにすると、あとがきに書かれている、「ぼくたち」よりも「彼女たち」を書くことで、「ぼくたち」の矮小さも描かれるという、著者の考え方を理解できる気がした。
まあその辺も、男性だから「ぼくたち」の考え方がよく理解できるので、底が浅く見えるという面もあるのかも、と思ったりもするのだけど。

| | コメント (0)

感想「ドーキンスvs.グールド」

「ドーキンスvs.グールド」 キム・ステルレルニー ちくま学芸文庫
リチャード・ドーキンスとスティーヴン・J・グールドという、進化論に関する大物研究者ふたりの論争を、客観的な立場から検証した本、だそう。原著は2001年の刊行。邦訳刊行は2004年。
この二人の研究者は、一般向けの著書がたくさん邦訳でも出ているので、馴染みのある名前だが、多分、1冊も読んだことはない。自分はそもそも、進化論自体にも一般的な知識しかない。ドーキンスとグールドが激しく論争していて、それぞれの支持者も派閥化して対立が続いている、ということも知らなかった。ただ、進化論について、いくらかの興味は持っているので、ふらっと入った古本屋で見掛けて、他に手頃な本もなかったので、なんとなく買ってみたという感じ。

そういう、ろくに知識もない状態だから、論争うんぬん以前の、進化論の考え方について説明されている部分を、なるほどという感じで読んでいた。もちろん自然淘汰とか、その程度は、一般常識の範囲で知ってはいたから、全くとっつけないということはなかった。というか、そのレベルの知識でついていける範囲の話を、興味深く読んだというところ。
たとえば、淘汰の役割についての認識に、学派によって違いがあることとか、今ある生態系は、進化による必然的なものではなくて、外部要因の大量絶滅などによって偶然存在したもの、という考え方があることとか。
で、肝心のドーキンスとグールドの論争のポイントについては、いまひとつピンと来ないまま。
この程度の読書なら、もっと入門的な本の方が有意義だったんだろうけれど、こういう論争があると知ると、じゃあ何を(どっちの本を)読んだらよかったんだろう、とは思ってしまう。まあ、自分が容易に理解できるレベルの話であれば、ドーキンスでもグールドでも、それほど大差はないのかもしれないけれど。
それなりに面白くは読めたのだけど、やはりさすがに、この本を理解するためには、知識の量が絶対的に不足していたという感じ。
(2022.9.20)

| | コメント (0)

感想「プロ野球「経営」全史」

「プロ野球「経営」全史」 中川右介 日本実業出版社
日本のプロ野球の歴史について、球団の経営者の側からたどっていくという、かなり斬新と思える内容。個々の球団について、親会社の変遷を紹介する文献は結構多いけれど、全球団を網羅した上に、ひとつひとつの変化の背景を丁寧に説明したものは、初めてなんじゃないだろうか。
とても面白かった。プロ野球のオーナー企業の変遷を切り口にすることで、プロ野球と政財界のつながりだけでなく、財界や産業の歴史そのものをここまで語れるというのも興味深かったし、いろんなことを教えてもらった。
一方で、ここ20年くらいで一気に増えた、プロ野球の球団やリーグの歴史に関する研究本の積み重ねの上に成り立った本だな、とも感じた。個人が独力で、一からここまで調べ上げるのは、容易なことではないはず。とはいえ、参考文献に挙げられている本は何冊か読んでいるけれど、それにしても大量なので、そうそう読めるもんでもない。よくまとめ上げたと思う。また、この本自体が、そういう書籍群へのガイドにもなりそう。
ちょっと情報量が多過ぎるので、情報の正確性の裏取りとか、校正とかが、どれくらいちゃんと出来てるんだろう、という不安は少しある。まあ、そこは自分でも鵜呑みにしないで、個々に検証すればいいことかもしれない。
読んでいて、印象的だった部分はいくつもあるが、特に興味深かったのは、東京スタジアムがなくなってしまったいきさつを書いたくだり。東京スタジアムというのは、行ったこともないくせに、いろんな場所で読んだり、映像を見たりして、知識が増えるにつれて、自分にとって、一種の夢の球場みたいな存在になっている場所。そこをあっさり消した張本人が、ロッキード事件で有名な小佐野賢治だったとは。知らなかった。
それから、読売とかフジサンケイグループの歴史について書かれているあたり。財界が保守的なメディアを作るために支援した、といういきさつが書かれていて、そりゃあこいつらが御用メディアなのも当たり前か、と思った。
ヤクルトというのも、どうも謎めいたところのある会社だなと思ってたけど、よくわかった気がする。国鉄→サンケイ→ヤクルトという、スワローズの親会社の変遷も、わかったようなわからないようなとずっと思っていたけれど、こうした繋がりがあったと知れば、すんなり納得してしまう。
また、西鉄が太平洋になって、クラウンライターになって、西武になったという時期はかなり覚えているけれど(同時期に、東映が日拓になって、日本ハムになった、というのも合わせて)、その背景や、単純なオーナー企業間の譲渡ではなかったといういきさつも含めて、ここまで丁寧に説明されているのは初めて読んだし、興味深かった(それこそ、おそらく参考文献のどれかに、もっと丁寧に説明されてはいるんだろうが)。
総じて感じるのは、少なくとも1980年代に差し掛かるまでは、プロ野球の経営というのは、結構おおざっぱなものだったんだな、ということ。ある意味、企業にも遊び心があった、おおらかな時代だったということなのかもしれない。先日亡くなった水島新司の「野球狂の詩」に描かれている東京メッツの経営は、かなり場当たり的で適当で、漫画だからなあ、と思っていたのだけど、あの時代のプロ野球の経営なんて、案外あんなもんだったのかもしれない、という気がしてきた。
球団経営がシビアになってきたのは、おそらく、バブル期を経て、それが弾けた後で、本格的には21世紀に入ってから。近鉄が消滅したり、ヤクルト球団が(だけじゃないと思うが)やたらと金儲けに熱心になったのも、そういう流れの上にあるんだろうな、と思う。
(2022.3.27)

[追記 2022.5.3]
東京スタジアムの消滅に小佐野賢治が関わっていた件については、以前、「スタジアムの戦後史」で読んでいたらしい。たまたま気付いたので追記しておく。ちなみに、「スタジアムの戦後史」は本書の参考文献には入っていない。

| | コメント (0)

感想「独ソ戦」

「独ソ戦」 大木毅 岩波新書
第二次世界大戦でのドイツとソ連の間で戦われた戦争(独ソ戦)の全体像を、新書サイズでまとめた本。本書は2020年の新書大賞というのを獲得している。その時に読んだ紹介記事が興味深かったので、読もうかと思ったが、ちょっと手が出切らなかった。しかし、今起きているロシアのウクライナ侵略の動きが始まったところで、また注目されるようになっているという話を聞いて、やはり読んでみることにした。
元々、自分は戦記的なものにはほとんど関心がないし(それが最初のタイミングで読まなかった主な理由)、戦記以外でも、自分の日頃の興味の範囲からすると、ヨーロッパの第二次世界大戦に関しては引っかかってくるのは、主に英米仏あたりが絡んでいる部分なので、独ソ戦については、ほぼ知識がなかった。ただ、本書はそういうシロートの入門書的なものも意識して作られた本だったので、馴染みのない読者が読むには適した本だったように思える。読んでいて、すんなり内容が入って来て、おおざっぱに全体像も把握できた気分になった。

最初の方を読んでいると、ヒトラーとスターリンという、二人の頭のおかしい独裁者がおっぱじめた、陰惨な戦争という感じがしたし、そのイメージは今のロシアのプーチンの姿とも重なった。彼らの病的な思い込みと雑な展望が、大量に人命を損なう事態を招いたという感じだったから、独裁者ってのが、いかに危険な存在かということが、読み取れるように思えた。そもそも独ソ戦以前に、ヒトラーもスターリンも、自分と相容れない人間は殺して構わないと思っているような連中だったわけで、そういう人物が誰にも止められない独裁者という立場に就くことが、どれだけ危険かと、改めて感じた。(じゃあ、そうでない人間なら独裁者になってもいいのか、というのは、また別の話)
ソ連に関しては、その理解は当たっているように思える。ヒトラーに吹っ掛けられた戦争に対する、独裁者の稚拙な対応が悲惨さを拡大した、という構図に見えるし、愚かさは今のプーチンによるロシアのウクライナ侵攻にかなりかぶって見える。今回のロシアは戦争を吹っ掛けた側、という違いはあるが。ただ、「劣等民族」の排除を掲げるようなドイツに対したことで、ソ連の人々の間にも、民族の殺し合い的な要素が強まっていくんだな。

しかし、ドイツについては、ヒトラー(とその一味)が(自分たちに忠実な)ドイツ国民に対して、好待遇を持って接していたこと、それによって生まれた国民の支持が、ドイツの戦争遂行を助けたという部分に触れて、それだけではないと思えてきた。ドイツ国民が、自分たちの豊かな生活が、他国からの収奪によるもので、ヒトラーの戦争がそれと一体であることを知った上で(知ったからこそ)、戦争を支持していたというなら、陰惨な戦争は、ヒトラー一味だけの責任ではなくて、それを支持した多くのドイツ人の責任でもあることになる。
この構図は、第二次世界大戦の前夜から、日本が大陸に侵攻して、満州国を設立するなどの侵略活動を行い、それを日本国民の多くが支持していたことに、とてもよく似ている。本書の終章にも、それに類したことが書かれていて、確かにその通りと思った。
つまり、独裁者だから危険という話ではないのだな、と思った。真に危険なのは、自分たちの利益のために、他国や他民族の犠牲を全く顧みない感覚にある、と思えてきたし、独裁者ばかりがそれを誘導するわけではなく、排外的な空気の中では、民主主義下でも起こりうることだな。ただ、民主主義では多様な意見が尊重されなくてはいけないし、そうした環境であれば、悲惨な状況に陥った後からでも、軌道修正は可能なはず。独裁者の思い込みで突っ走っていくだけの体制よりは、はるかにマシ。それが民主主義の意味だと思う。(そして、反対意見が権力側から抑圧されたり、権力側への忖度で自主規制されるような状況になったら、それはもはや民主主義の機能を失っている)

戦争がこういう構図で起こされることがあるというのを知っておくことは、この国が無駄に陰惨な戦争に向かわないように警戒するために、必要だろうと思う。今のこの国で権力を握っている人々は、第二次世界大戦の時と同様に、現実を見ようとせず、思い込みのみで動くような人々に見えるし、それはとても危険な状況だと感じている。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧