感想「目の見えない人は世界をどう見ているのか」

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 伊藤亜紗 光文社新書
2015年に刊行された本だが、結構順調に版を重ねているようで、今回読んだのは、2018年に刊行された第15版だった。
子供の頃、かなり度の強い近視で、失明というものに、そこそこ現実味のある危惧を感じていた影響で、タイトルに書かれているような事柄には、以前からかなり興味を感じていた。

内容はタイトル通り。ただし、目の見えない人を、単なる身体障害者としてではなく、健常者とは異なるものが「見えている」人として、ポジティヴに捉えようとしているのが特徴かと思う。著者の専門は 美学と現代アートだそうで、 医療や福祉といった方面の人ではない。目が見えないのが日常生活する上での多大な障害であることは踏まえつつも、それを欠点ではなく一種の持ち味と考える、独特なアプローチをしようとしている。

目が見えない人の世界認識というと、一般的には、視覚以外の感覚が高度であるとか、点字を使うといったイメージになるが、そうした思い込みを崩していきながら、実際のところを解説していく。 また、五感と言われる感覚の中で、視覚を最上位とする考え方には疑問を投げ掛ける。
点字の認識率がそんなに低いとは知らなかった。確かにこんなに難しいものをよく使えるな、と思ってはいたけれど、実際にそうなんだな。
目が見えない人の美術鑑賞というのが、興味深かった。見える人が絵画を口頭で説明して、それを見えない人が自分の頭の中で再構成していくのだそうだが、そもそも美術作品の受け取り方は、人によってまちまちなわけだし、特に現代アートになると、何が描かれているのか、見える人にもよくわからなかったりすることも多い。描かれている色や線の情報だけを受け取って、それを再構成するというのは、そうした作品の鑑賞方法として、それほど特異ではないのかもしれない。また、そのように時間を掛けて作品と向き合うことは、見える人が展覧会で急ぎ足で作品の前を通り過ぎていくのに比べたら、ずっと深い作品理解になっているのかも、という気もした。

そういった話も含め、視覚を使えない人が、視覚情報からの錯覚や思い込みから解放されていて、違う物事の捉え方をするというあたりは、確かにと思うし、そこから前提が全く違う文化が生まれることもありえるのかもしれないと思った。ただ、あくまでも、多数の見える人の中で暮らす、少数の見えない人という状況では、そこまでの劇的なことは起きにくいかな。
それから、見えない人といっても、中途失明の場合は、見えていた時の記憶がある分、見える人との意識の違いは起きにくいはず。最初から見えなかった人たちの世界認識は、かなり違うのでは、と思うんだが、その辺はあまり触れられていない。

一方で、見えないことによる独特な感覚を強調するあまり、見える人の感じ方を限定的に捉えすぎている感もある。たとえば自販機やレトルトのギャンブルなんて、見える人でもやる人はやるだろう。

そうしたところに、いくらかの物足りなさは残ったが、目が見えない人の感覚について、認識を改めさせてくれる内容だったのは確かだと思う。
(2020.6.11)

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感想「仏教抹殺」

「仏教抹殺」 鵜飼秀徳 文春新書
明治の始まりの時期に起きた廃仏毀釈についての本。 副題は「なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」。2018年の刊行。

廃仏毀釈は、明治の新政府が出した神仏分離令がきっかけだったが、政府はあくまでも、寺と神社を分離する指示を出しただけ。しかし指示を受けた側が暴走して、寺や仏像などの破壊に発展した、と書かれている。 破壊活動まで含めての明治政府の指示だったと思っていたから、これは意外だった。
著者は、激しい廃仏毀釈が起きた地域を訪れて、その痕跡をたどるとともに、なぜそういう暴走が起きたかという、メカニズムを考察している。
そもそも、神仏分離の基本的な考え方は、国家神道による国の統制を目論んだ中央政府が、江戸時代に徳川幕府による統治と深い関わりを持っていた寺を、神社から分離しようとしたもの。だから、過激な人間が、分離に留まらず破壊まで行ってしまうのは、それほど特異な現象とは思えないのだけど、寺院が破壊されたことで、それまで蓄積されていた地域の情報が失われたり、政府が廃仏毀釈を止める指示を出したりしていたということだから、暴走だったことは間違いないんだろう。

暴走にはいくつかのパターンがある。
今の視点で見て、一番考えさせられるのは、明治の新政府の意図を忖度した地方の行政官や民衆による、「自主的な」活動というパターン。国がそこまでやれとは言っていないのに、忠誠心を示したいあまり、率先して仏教に関わりがありそうな事物を破壊していった。権力への忖度によって、重要なものが失われるという構図は、今に通じるものがあるし、この国の病だなと思う。もちろん、こうしたことはこの国だけで起きているわけじゃないんだろうけど、他の国のことはよく知らないし、特に近年の、この国での権力への異常な忖度を日々見ているから、やっぱりそう思う。

それ以外では、寺が江戸時代に強い力を持っていたことから来た権威主義や腐敗が、民衆の反感を醸成していたということも多かったらしい。それまで寺よりも弱い立場に置かれていた神社が、力関係が逆転して強い行動に出た時に、民衆が寺を守ってくれなかった。著者は副住職も勤める仏教人とのことなので、寺の側に人心が離れる原因があった点を重くとらえて、現代人の仏教離れとも繋げて、考察している。もしかしたら、著者としては、こちらの方が、より大きなポイントなのかもしれない。ただ、個人的には、この辺については、権力は腐敗の元という以外の所には、あまり関心を持てない。仏教にしても神道にしても、宗教的なものを信仰するという気持ちを、自分はあまり持ち合わせないので。
また、このあたりを突き詰めていくと、廃仏毀釈は一種の宗教戦争みたいなものか?、という気もしてくる。自分は、文化財としての仏教関連の施設に対しては興味があるが、宗教施設としてはほぼ関心がないという立場なので、著者とは少し見方が違っているかもしれない。

それはそれとして、今の感覚からすると、永年伝わってきた仏像などの貴重な文化財が大量に破壊されたのは、なんてもったいない、ということになるわけだけれど、明治の初めにはまだそういう感覚は(少なくとも一般的には)なかったんじゃないかと思う。本書の冒頭で引き合いに出されているタリバンによるバーミアンの仏像破壊も、日本の廃仏毀釈は爆破のたった130年前の話に過ぎないと思えば、日本人が一方的にあれを野蛮な行為と非難することも、出来ないような気がする。
(2020.5.20)

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感想「タコの心身問題」

「タコの心身問題」 ピーター・ゴドフリー・スミス みすず書房
タコには、人間とは違う進化をした心や知性があるのでは?、という本。副題は「頭足類から考える意識の起源」。原著は2016年に刊行され、邦訳は2018年。
ポイントはタコ(やイカなど)を含む頭足類は、進化の非常に早い段階で、人間を含む脊椎動物と分かれたという所。脊椎動物が心や知性を獲得する前の段階で分離しているので、頭足類がそうした能力を持っているなら、それは脊椎動物とは別のプロセスで獲得したことになり、異なる種類の知性ということになる。ある意味、地球外の知的生命体に近いイメージ。
冒頭の部分に書かれていた、その辺の引きの強さにひかれて、読んでみることにした。

中の方まで読んでみると、心・知性といっても、それほど高度なもののことを言っているわけではなく、せいぜい犬や猫のようなレベルの話なので、地球外の知的生命体というイメージからは、かなり離れてはいる。そうは言っても、違うプロセスで獲得され、脊椎動物とはかなり異なっている(と思われる)知性と、人間が(単純なものとはいえ)コミュニケーションを取れるというのは、ずいぶんロマンのある話なのは間違いない。
タコやイカの生活や行動様式、知性の獲得も含めた地球上の生物が進化してきたプロセスなどが、丁寧に説明されている。専門的な所にもだいぶ踏み込んでいるので、難しい部分もあったが、おおむね興味深く読むことが出来た。それにしても、タコやイカに、(心や知性は別としても)こんなに高度な能力があったとは知らなかった。

しかし、タコやイカにすらそんな力があると知ると、そうした生き物を殺して食っていることを、改めて考えないわけにはいかないと思った。自分はベジタリアンじゃないし(実際のところ、植物にもある種の知性があるんでは、という説もあるから、ベジタリアンならいいのか?、という疑念も少しある。なお、植物の知性については、本書でも軽く触れていた)、自分が生きていく必要から考えても、肉食をやめようとも思っていない。それが食物連鎖というものだろうし。でも、生き物を殺して食うことで、自分が生きてるという意識を持ち続けることは、やっぱり必要なんじゃないかとは考える。

そして本書の締めくくりは、脊椎動物や頭足類の知性を育んだ海が、人間による環境破壊で、取り返しのつかない状態に変質してしまうことへの危惧。具体的な原因としては、汚染物質などの流入と並んで、海洋生物の乱獲もあるわけだから、そういう意味でも、生き物を殺して食っているということの意識は必要だろうと思う。
(2020.5.14)

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感想「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」

「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」 ブレイディみかこ 新潮社
イギリス在住の著者が、アイルランド人の夫との間にもうけた、中学1年の息子の周辺に起きる日々の出来事を通して、イギリス社会の差別や格差について考えたことを書いた本。タイトルは、著者の息子であるイエロー(東洋人)とホワイト(白人)の混血の少年が、レイシズムに触れてブルーになった気分を表した文章から拝借したもの、とのこと。2019年の刊行で、Brexitも背景に見えている。 

元々、この人の本は何冊か読んでいるので、イギリスにある様々な問題についての描写はそれほど目新しいものではないし、これらは簡単に解決する問題でもないから、エピソードごとにはっきりした結論や回答が示されるわけでもない。しかし、ひとつの問題に触れるごとに、差別や格差に対抗する立場から、どう対処するのが正しいのかと真剣に考える著者や少年の姿には、こうありたいと思わされる。
ちなみに、イギリスについて書かれた本ではあるものの、おおかたは日本でも同様な問題が起きているし、決して他人事ではない。日本での状況を考える手がかりにもなる。著者が息子と日本に里帰りした時のことが書かれているくだりもあり、これがまた、排外主義を体験する、どうにもやりきれない話も含まれていたりする。

それにしても、この少年はとてもよい子で、格好良すぎるくらい。自分が中学1年の頃は、とてもこんな社会的な感覚は持っていなかった。もちろん、国も時代も違うわけだけれど、背景には、本人や家族の意識の持ち方もあるにせよ、学校でこうした感覚を醸成するプログラムがあることも大きいように思える。素晴らしいことだと思うし、大昔に自分が受けた教育にはなかったはずだが、今の 日本の中学には、そういうプログラムはあるんだろうか。 
(2020.2.21)

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感想「プロ野球入門」

「プロ野球入門」 金田正一 有紀書房
古物屋で手に入れた、子供向けのプロ野球本。「ぼくたちの野球百科」というシリーズの1冊らしい。このシリーズには金田正一著の本が他に3冊あり、村山実、中西太、田淵幸一の本もあったらしい(本書内の広告による)。刊行年の記載が見当たらないが、内容から判断して昭和47年(1972年)頃に出されたものと思われる。 まあ、金田正一著といっても、ゴーストライトだろうとは思うけれど。

内容はかなりしっかりしている。日本のプロ野球の始まりから当時までの歴史の概観、プロ野球の運営のされ方、選手以外の試合運営に携わる人々の紹介、用語解説や選手名鑑など、多くの事柄について、丁寧にわかりやすく説明していて、立派な入門書だと思う。大人になってから、改めてこういうのを読むことって、あまりないので、なかなかためになった。

もちろん1970年代の本なので、チームや選手が今と違っているのは当然だし、それ以外にも、今とは事情が違う部分は多々あるが、それはそれで当時のプロ野球事情を知ることが出来て、興味深かった。阪急・近鉄・南海どころか、まだ西鉄や東映があった時代。パリーグで当時のままなのは、もはやロッテだけなのか。(ちなみにセリーグは、横浜ベイスターズが大洋ホエールズで、ヤクルトの愛称がアトムズなくらいの違いしかない)
改めて考えてみると、時期的には、まさに自分くらいの世代に向けて書かれていた本だった。自分が子供の頃のプロ野球って、こういう世界だったんだ。そう思って読むと、また趣深いものがあった。
(2020.2.14)

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感想「一九七二」

「一九七二」 坪内祐三 文藝春秋
2003年刊行で、「諸君!」での2000年〜2002年の連載の単行本化とのこと。 副題は「「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」」
1972年に日本の社会の大きな転換点があったと仮定して、1972年前後に発生したエポックメイキング的な出来事を拾っていく内容。並行して1958年生まれの著者が、当時の思い出を語っていく。

自分は1972年には10歳にもなっていなかったし、地方在住だったから、東京で生まれ育った、当時ティーンエイジャーの著者とは、だいぶ感覚のずれはあるのだけど、あの頃、そういう出来事があったという歴史の共有感覚は確かにある。 こんなことがあったという子供の漠然とした記憶を、はっきりした出来事として見せてくれるところは、非常に興味深かった。とりわけ、かなりのページを費やして書かれている連合赤軍の事件は、ここまで細かく書かれたものを今まで読んだことがなかったので、いろいろ考えさせられた。 ちなみに、著者は当時の資料に丹念に当たって執筆していて、著者のバイアスはあるにしても、資料に基づいた正確で公正な内容なのだろうという、記述に対する信頼感もあった。

しかし、この本の前提となる、1972年あたりに「歴史意識」の転換があったという仮定については、一方的な思い込みなんじゃないだろうかという気持ちが抜けなかった。 著者も、テーマとして大きく掲げている割には、あくまでも話のとっかかりという感じで、特定の年を転換点とする考え方に、それほど固執しているわけでもないようには感じる。物事の感じ方や考え方は時代が変わるにつれて変わってくるものだから、その変化を論じるという観点では、本書の意味は損なわれていないとも思う。ただ、テーマ設定を離れてしまうと、今度は、これは著者の単なる思い出話じゃないのか、という気もしてくるのだけど。著者はこの文章を書いた時、まだ40代前半なので、少年時代の思い出話を得々と語るには、少し若過ぎないかという気はしてしまった。

簡単にまとめてしまうと、自分はこの本を、1972年前後の過去の記録の本としては興味深く読んだけれど、おそらく著者が意図していた社会評論としては、それほど感銘は受けなかった、という感じ。ただし、現時点で、この本が出た2003年から20年近く経過していることは、考慮するべきだろう。この20年で1972年はさらに遠い昔になり、その当時に起きた変化の意味も、随分変わってきていると思うので。 それこそ、1972年頃以上に意味を持つ転換点を、その後の時代に見出すこともありうるし。たとえば2011年。

ちなみにこの本を、なぜ刊行から20年近くも経った、今読んだのにはいきさつがある。これは刊行当時に知人から、興味がありそうな内容だから、と言われて貰ったが、「諸君!」に連載されたようなものを読む気にはならなくて、ずっと放置してあった本だった。今年の年始めに部屋を片付けた時に、ついに読まずに処分する気になったが、そのタイミングで著者が亡くなった。その後、あちこちで見かけた追悼文が、どれも著者に好意的なものだったので、処分する前にせめて読んでみようと思ったのだった。
とりあえず読んでみてよかったとは思う。本をくれた知人が、自分が興味がありそうと思ったのも、間違いではなかった。ただし、そこまで積極的になれる内容ではなかった。もしかすると、著者の本領が発揮された作品が、他にもっとあるのかもしれないが。また、それこそ2011年を、この著者がどう捉えたのか、という点には興味がなくもない。それを探して読んでみようとまでは思わないけれど。
(2020.2.7)

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感想「「空気」と「世間」」

「「空気」と「世間」」 鴻上尚史 講談社現代新書
3月に同じ著者の「不死身の特攻兵」を読んだ時、日本人の精神構造について、こちらの方で詳しく書いたという記述があり、読んでみたかった本。

今までずっと、この国で生活していて感じていた強い違和感について、自分なりに考えてきたのと同じことが、この本に書かれていた、という気がした。自分の狭い経験の範囲で理屈で考えていたことが、もっと広い経験を持って、いろんな勉強もしてきた著者と、似たような結論に達していると知ったのは、随分心強かった。
鴻上尚史は、「不死身の特攻兵」を読んだ時に感じた通り、 確かに自分と同じようなものの考え方をする人らしい。ずっと、そうだとは思っていなかった。

特に印象が強かったのは終盤の部分。キリスト教などの一神教を信仰する人々にとって、気持ちの最後の拠り所ともなる宗教に対し、日本人のそれは「世間」なんだというくだり。こうした考え方自体は、特に新しいものでもないと思うが、そこから先の、「世間」に対して強い違和感を持ちながら、宗教も信仰しない(自分みたいな)人間にとって、「救い」はどこに求められるのか、という部分が、個人的にかなり重かった。
このテーマは、以前から時々頭に浮かぶけれど、それに答えてくれる考察をあまり読んだことがないような気がしていただけに(もっとも、そういう関係の文章を読み漁っているというわけでもないが)、とても興味深かった。ちなみに本書の前書きには、「世間」や「空気」の重苦しさを取り払う方法について書いた、という趣旨の文章があるから、この部分こそが、本書の一番重要なテーマなのだと思う。
そして、著者が提示するのは「社会」とつながること、複数の「共同体」とゆるやかにつながること。前者はやや抽象的な言い方で、具体的な手段になるのが後者かなと思う。それはなんとなくわかるし、自分が日頃、漠然と考えていることにも近い気がする。そして、多分これは、「複数」で「ゆるやか」なのがポイントなのだろうと思う。 

ただ、本書で触れられていない、知りたいと思う点が、ひとつある。日本同様に一神教に支配されていない他の地域はどうなんだろう、ということ。たとえば中国やインド。彼らは何に救いを求めているのか。そういう地域にも、日本で言う「世間」に似た重苦しいものがある、ということになるんだろうか。

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感想「漢帝国 400年の興亡」

「漢帝国 400年の興亡」 渡邉義浩 中公新書
中国の漢とはどういう国家だったのかを論じた本。国家の成立から衰退までの権力構造の推移を、主に「儒教国家」の成立という観点から語っている。前漢・新・後漢と続いていく中で、儒教がどういう風に国家経営の理念に取り込まれていったか、という過程を解説している。

漢の時代の歴史について、それほど知識はなかったけれど、故事として見聞きしたことがある題材は多いし、近年では北方謙三の「史記」を読んだりもしている。断片的に知っているそうした出来事の、歴史の中での位置付けが分かるのは興味深かった。

というか、北方謙三の中国物を読んでると、登場人物がやたらと漢に拘る場面が出てくる。下敷きにしている原典に、そういう要素があるんだろうと思う。それから、今の中国の中心的な民族は明らかに漢民族だし、端から見る限り、漢民族が周辺のモンゴルやチベットやウイグルといった民族を、元々中国の一部というような言い方で支配して、抑圧している構図が見える。そんなに後世に大きな影響を残している漢というのは何なのか、という疑問は前から持っていた。その辺について、何か教えてくれる本かなと思って、読んでみた。本屋で読んでみた前書きにも、それらしいことが書かれているように感じたので。
結果的には、その辺の疑問の回答は得られなかった気がする。ただ、 かなり細かい専門的な記述も多く、素人には理解しにくい所があったので、実際には書かれているけれど、読み取れなかっただけなのかもしれない。ともあれ、すんなり納得できるような説明が得られなかったのは、残念だった。 後世への影響という点では、著者の強い関心は「三国志」の時代あたりまでで、それ以降に関しては補足程度のようにも感じられたから、こちらが求めていたものと、焦点が少しずれていたという気もする。

ただ、漢の時代に形成された国のあり方が、時代に合わせた変革は行われつつも、近代に至るまで(もしかしたら今も)中国の体制の骨格であり続けているというのは理解した。元や清のような、異民族に長く支配された時期があっても、それが続いたというのは、よくわからないのだけど、巨大な国だったので、うまく支配するためには、異民族であっても、それまでの体制を残さざるを得なかった、ということなのかな(1945年のアメリカが、天皇制を残して日本を占領したようなものか?)。経緯はともかく、そうやって漢に端を発した支配体制が長く維持され続けることで、それこそ日本の天皇制のような、漢を輝かしい過去と捉える、一種の神聖化が起きているのかな、とは思った。

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感想「日本の野球場100選巡礼 スタジアム漫遊記」

「日本の野球場100選巡礼 スタジアム漫遊記」 久保田登志雄 彩流社
日本全国で300以上の野球場で観戦した著者が、その中から100球場をピックアップして、観戦体験をまとめたもの。
データベースとして使うには情報量不足だが、著者がその球場を見て、感じたことが細かく書き込まれているので、球場の雰囲気を感じるには手頃な感じ。
著者がやってることは、球場への行き来の過程も含め、自分が日頃やってることとほとんど同じなので、感覚はよく分かるし、同好の士という感じで読める楽しさのある本だった。
ただ300以上というのは、一般人が日常のかたわらに行くというレベルとしては、なかなか届かない数字だと思う。しかも、この著者は、長年に渡って積み上げたというよりは、巻末のリストを見ると、この10年間くらいに急激に数を積み上げていて、観戦球場数を増やすことに特化して、観戦に通っているように思える。その辺の方向性は、自分とは違うと思った。自分の場合、そういうことをやりたい気持ちもないではないけれど、特定のチームやリーグを定点観測的に見続けたいという意識の方が強くて、そちらを優先してしまうから、なかなか球場数は増えていかない(ちなみに現時点で40程度。あとは、サッカーと兼業だったり、基本的には見に行かないカテゴリーがあったり、という事情もある)。
それから、いろいろと著者の雑感が書き込まれているが、皮相的な面だけを見て、安直にコメントしているように感じる部分がちらほら。もっとも、あくまでも「漫遊記」なので、そんなものだろうなとは思う。
誤字が目立つのも気になった。あまりしっかり校正されていない様子。ただ、そうした所を見ると、個人が趣味で出した自費出版的な本のように思えるし、そういう本に細かい所をとやかく言うのはヤボかもしれない。

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感想「内戦の日本古代史」

「内戦の日本古代史」 倉本一宏 講談社現代新書
日本の古代に起きた内戦がどのようなものだったか、というのを解説する内容。
前振りとして、日本の古代は、諸外国(といっても、中国や欧州程度と思われるが)に比べて、対外戦争も含めて極端に戦争が少なく、事後処理も、敵側の人間であっても、降伏したのであれば戦後の統治体制に受け入れるなど、概して穏やかなものだった、ということを言っている。
その後、ひとつひとつの内戦を細かく解説していくが、日本史のかなり細かい所まで踏み込んだ内容なので、バックグランドの知識が乏しい自分にとっては、なるほどそうなんですか止まりだった。それでも、こんな所まで文献から読み解けているのか、というあたりには、ちょっと感銘を受けたけれど、たとえば邪馬台国の所在にしても、説が色々ある中で、この著者は自身が妥当と思う説に基づいて自説を組み立てているから、この本全体の内容も、どこまでが専門家の中での共通認識なんだろう、とは思った。

元々は、穏やかだった古代が、なぜ血腥い中世へ移行して、さらには明治以降の殺伐とした好戦的な国家へ繋がっていったのかというのが、著者の問題意識らしいのだけど、本書は古代の戦争の解説の域を出ていないように思える。問題意識に関わる部分の考察はあまり厚くなく、そこに興味を引かれて読んでみた本だったので、その点は残念だった。諸外国に比べて、と言っている割に、外国の歴史にそれほど通じているようでもない印象を受けたあたりもマイナス点。要するに、著者の主張の部分に、どの程度の妥当性があるのかを、本書を読んだだけでは、いまひとつ判定しづらかった。
それでも、あまり知識のない古代の権力闘争について、なにがしかの知識が得られたのは良かった。古代の権力闘争が、朝鮮半島のそれと、思っていた以上に密接に繋がっていたのも興味深かった。日本と朝鮮半島は、少なくとも権力者のレベルでは、今よりもずっと密接な関係にあったということなんだよな。
(2019.5.5)

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