感想「内戦の日本古代史」

「内戦の日本古代史」 倉本一宏 講談社現代新書
日本の古代に起きた内戦がどのようなものだったか、というのを解説する内容。
前振りとして、日本の古代は、諸外国(といっても、中国や欧州程度と思われるが)に比べて、対外戦争も含めて極端に戦争が少なく、事後処理も、敵側の人間であっても、降伏したのであれば戦後の統治体制に受け入れるなど、概して穏やかなものだった、ということを言っている。
その後、ひとつひとつの内戦を細かく解説していくが、日本史のかなり細かい所まで踏み込んだ内容なので、バックグランドの知識が乏しい自分にとっては、なるほどそうなんですか止まりだった。それでも、こんな所まで文献から読み解けているのか、というあたりには、ちょっと感銘を受けたけれど、たとえば邪馬台国の所在にしても、説が色々ある中で、この著者は自身が妥当と思う説に基づいて自説を組み立てているから、この本全体の内容も、どこまでが専門家の中での共通認識なんだろう、とは思った。

元々は、穏やかだった古代が、なぜ血腥い中世へ移行して、さらには明治以降の殺伐とした好戦的な国家へ繋がっていったのかというのが、著者の問題意識らしいのだけど、本書は古代の戦争の解説の域を出ていないように思える。問題意識に関わる部分の考察はあまり厚くなく、そこに興味を引かれて読んでみた本だったので、その点は残念だった。諸外国に比べて、と言っている割に、外国の歴史にそれほど通じているようでもない印象を受けたあたりもマイナス点。要するに、著者の主張の部分に、どの程度の妥当性があるのかを、本書を読んだだけでは、いまひとつ判定しづらかった。
それでも、あまり知識のない古代の権力闘争について、なにがしかの知識が得られたのは良かった。古代の権力闘争が、朝鮮半島のそれと、思っていた以上に密接に繋がっていたのも興味深かった。日本と朝鮮半島は、少なくとも権力者のレベルでは、今よりもずっと密接な関係にあったということなんだよな。
(2019.5.5)

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感想「犬であるとはどういうことか」

「犬であるとはどういうことか」 アレクサンドラ・ホロウィッツ 白揚社
犬の嗅覚について論じた本。学術的な検証結果や、犬の嗅覚を実際に利用している様々な現場を取材した経験をまとめている。著者はさらに、自分でもいろいろな嗅覚のトレーニングを体験して、においを嗅ぐというのはどういうことなのかとか、人間の嗅覚についても踏み込んでいく。

自分は別に犬好きというわけではないけど、散歩している犬が、道端のにおいを必死で嗅いでいる姿には、いつも心を打たれているので(^^;)、この本に興味を感じた。なぜ心を打たれるかというと、自分自身がにおいに興味があるからで、それは間違いなく、子供の頃、あんまり視力がよくなかった分、聴覚や嗅覚を鍛えようという意識が強かったから。でも犬には勝てないよなあ、と思っていて、その点は犬に敬意を持っているよ。
犬の高度な嗅覚(においを感知するというだけでなく、それを使ったさまざまな探索能力も含め)についての、興味深いエピソードがいろいろと書かれているが、飼い犬からはその能力が失われつつあるというのは、残念なことではある。餌が貰えるから、自分でいろんなものを嗅ぎ出さなくても食事に困らないのと、いろんな所に鼻を突っ込むのを、飼い主は概して嫌がるから、というのがその理由だそう。確かに近頃、散歩中に嬉々としてにおいを嗅いでる犬を、昔ほど見かけない気がするなと、思ってはいた。もっとも、それは能力を使うことを忘れている(教えられていない)だけなので、訓練すればちゃんと思い出すらしい。
まあ、それにも関わってくるのだろうけど、においを嗅ぐのは意識的な行為だというのは、興味深かった。勝手ににおってくるにおいも確かにあるにせよ、基本的には意識して嗅がないと、においは分からないらしい。ということは、人でも訓練すれば、犬並みは無理としても、今よりはにおいが嗅げるようになるかもしれないわけで(著者はそういうトレーニングも受けてみたりしている)、夢のある話。

ちなみに、人間の病気を犬が嗅ぎ出すというくだりを読んで、そんなら犬を1匹飼ってみるのも悪くないかと一瞬思ったものの、面倒見切れないのは確実なので、やっぱり無理。
(019.4.13)

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感想「不死身の特攻兵」

「不死身の特攻兵」 鴻上尚史 講談社現代新書
太平洋戦争末期に特攻を命じられ、9回以上出撃しながら、生き延びて帰った佐々木友次という人物を紹介することを通じて、特攻がどういうものだったのか、なぜこんな不条理なことが行われたのか、といったあたりを論じた内容。
日本軍がやっていた特攻が、どれだけ愚劣な作戦だったか、それを推進した連中が、どういう風に醜い人間たちだったかというのが、よくわかる。
理屈で考えれば最悪の作戦であることが分かるはずなのに(あるいは、ある程度、事態が進んだ後では、結果も明白に出ていたはずなのに)、それを認めず、そのまま特攻に突き進んだ背景には、無能な指揮官と、愚劣な命令に従順に従う家来たちという二重構造があった。
前者に関しては、個人の資質だから、どうしようもない面もあるだろうけれど、そういう人間が地位に留まることを許しているのも、また後者だと考えれば、最大の問題はそっちかと思う。で、それは多分、著者が本書の最後の方で簡単に述べているように、日本人の精神構造によるものなんだろう。その証拠に、今の日本にも、内閣や政権与党を筆頭に、そんな構図がそこら中に見えるし、特攻を強制したような連中と同じメンタルの人間も、珍しくないように思える。
また、本書中にも記載があるように、政府による誘導や締付けはあったにしても、戦争中の世論は決して反戦的ではなかったし、そういう世論に同調的でない人間を排撃する空気があった。それも多分に、同じところから来ていたんだろうなと思う。
そう考えると、気分が滅入ってくるが。せめて、何が敵なのかがはっきり分かれば、対応のしかたもある、とでも考えるか。
日本人の精神構造についての考察は、著者は別の本、「『世間』と『空気』」で詳しく書いているようなので、そっちも読んでみようかと思う。

著者の鴻上尚史に対しては、演劇というのがあまり好きでないこともあって、先入観があったから、以前はあまり好感を持っていなくて敬遠していたが、近年、この人が書くものをポツポツ目にする機会があり、日本の社会に対して、自分が日頃考えているようなのと似たような意識を、この人が持っていることに気付いた。本書の内容についても、ほぼ全面的に共感出来ると思った。相手のことをちゃんと知ろうとせずに判断するのは、やっぱり間違いのもとなんだなと思う。
(2019.3.2)

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感想「プロ野球と鉄道」

「プロ野球と鉄道」 田中正恭 交通新聞社新書
プロ野球ファンの鉄道愛好家が、タイトルの通り、プロ野球と鉄道の関わりについて、プロ野球の歴史の初めからたどったもの。今年の2月に出た本。

当然、鉄道会社の球団の親会社としての関わりが、内容の大きな部分を占めるが、チームや観客の輸送という観点も結構大きくて、本書の独自性になっていると思う。当時の列車時刻表から検証しているのを見ると、確かに新幹線開通前の広島や福岡や仙台からの移動は大問題だったんだなと分かる。今みたいに全国にチームが散らばっていても、週6日ペースで試合が出来るのは、対応する交通インフラがあってのことなんだなあ。

それ以外では、著者には阪急の東京応援団員だった経歴があり、今では全球団の試合をまんべんなく見に行っているとのことで、実際に現場を知っているリアリティが感じられるのがポイントと思う。ただ、神宮球場のスタンドの風景の描写は、ちょっと古い(2-3年前な感じ)気がした。あと、そういう経歴にしては、球場観戦試合1000試合以上というのは、控え目な数字だね。まあ、2000試合には届いてない、くらいのイメージなのかな。

単にプロ野球の歴史をコンパクトにまとめた本として読める部分もあるが、その辺は今は類書も多いので。参考文献がいろいろ挙げられていて、それらの内容に拠る所も多いんだろうと思う。ちなみに宝塚運動協会について、ここまで丁寧に触れた記事を読んだのは初めてだった気がするが、これも参考文献のどれかに元ネタがありそう。やはり本書の一番の読みどころは、独自性を感じられる部分の面白さだと思う。
(208.8.18)

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感想「独裁国家に行ってきた」

「独裁国家に行ってきた」 MASAKI 彩図社
世界204カ国を旅行したという著者が、各地の独裁国家へ行った体験をまとめたもの。
あくまでも限られた時間と地域での著者の体験記なので、この本の記述だけで、この国はこうなのか、と考えてしまうのは危険だろうけれど、一般的なメディアでは、あまり伝えられない国のレポートが多いので、興味深い内容ではあった。コンゴとかサウジアラビアとかベネズエラとかの内情を伝えた記事って、なかなか見ないものな。

独裁国家と言っても中身は様々で、統治機構自体が腐敗している結果、危険きわまりない国もあれば、独裁によって安定が保たれている国もあり、ひとくくりでは考えられないというのがよくわかる内容だと思う。
独裁は、イコール悪ではなくて、本当に理想的な独裁政権なら、むしろ健全で効率的に国を運営出来るかも、とは思っている。
ただ、一方で「独裁」は、原理的に多様性とは相反するのでは、とも思う。そもそも、本当に理想的な独裁なんてものが、現実にありえるのか、ということもある。
そして最大の問題は、仮に良い「独裁」があったとしても、それが腐った時に、それを国民が排除するのがとても難しい、ということだと思う。うまく回っているように思えた独裁国家が、独裁者の変質でおかしくなったが、独裁を倒すことが出来ずに破綻に向かう例は、世界中にいくつもある。たとえば、本書に収録された国で言えば、ジンバブエがそうだったはず。
その点、民主主義は、腐った権力を民意で倒すことが、少なくとも原理的には可能なわけで、いろいろ欠点はあるにしても、民主主義が最善の選択ってのは、そういうことだと理解している。
とはいえ、民主主義の下でも、権力に対抗する勢力の力が十分でなかったり、権力に飼い慣らされた国民が多かったりしたら、それはうまく機能しないわけだけれど。今の日本はそういう状態だろう。

それはそれとして、リベリアやナウルは、必ずしも独裁体制が、その国の問題の本質ではない気がした。興味深くはあったけれど、この本で取り上げるのが適切なんだろうか、とは思った。
(2018.5.13)

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感想「本格ミステリ戯作三昧」

「本格ミステリ戯作三昧」 飯城勇三 南雲堂
本格ミステリの有名な作家や作品についての評論集だが、形式が独特。対象とした作家の作風や作品について、それらを真似て、論点が明確になる内容の贋作を書き、併せて評論で論じるという形を取っている。小説と評論が並行して置かれているので、確かに著者の意図が分かりやすい。自分がそれほど関心がない作家や作品についても、言わんとしていることが何となく理解出来るというメリットもあったかなと。
贋作の内容については、基本的にはお遊び的なものなので、あれこれ言うのは無粋かな。ただ、しっかり考えて書かれたものではあるし、どれも面白く読めた。

そこそこ分厚い本ではあるが、15章から成っているので、一篇一篇は結構短く、やや食い足りない部分もある。体系的な評論集というよりは、ミステリのマニアが、思いつくままに色んな作家や作品を論じてみた、という雰囲気が強く感じられる内容だと思う。商業出版にしては、随分、趣味的な本だなあ、とは思ったが、著者の名前だけでも、ある程度は売れるという判断を出版社がしたんだとすれば、飯城さんにはちょっと感心してしまう。ミステリ・マニアとしての、長年の活動の積み重ねの上で、出せた本だと思うので。
まあ、同じ出版社が2016年に出した「本格ミステリー・ワールド2017」を読んだ時、まるっきり同人誌だな、と思ったのだけれど、それを考えれば、こういう本が商業出版で出ても、不思議はないのかもしれない。ちなみに本書収録の綾辻行人篇は、「本格ミステリー・ワールド2017」からの再録。

なお、著者がエラリー・クイーン研究家なので、クイーン関連の項目が多い。クイーンに関する贋作・評論だけでも、読む値打ちは十分にある本じゃないかと思う。
(2018.2.17)

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感想「これで古典がよくわかる」

「これで古典がよくわかる」 橋本治 ちくま文庫
日本の古典というのがどういうものかというのを、わかりやすく説明した本。原著は1997年、文庫版は2001年の刊行。
ちなみに、前半部は主に、古典そのものを、わかりやすく説明したわけではなくて、平安時代以前の古典が、なんでとっつきにくいかというのを、わかりやすく説明している内容。単純に言っちゃえば、平安時代以前の古典の書き言葉は、今の日本語とは違っているから、ということなんだろうと思うが、それで合ってるかな。

要するに、日本語を書き表すにあたって、元々は中国から貰ってきた漢字を使っていたが(万葉仮名)、それが不便なので、漢字から派生したひらがな・カタカナを使って書き表す段階を経て、現在の表記に通じる、かな漢字混合文にたどりついた。だから、かな漢字混合文より前の文章は、読みにくくって当たり前だと。納得しやすい説明だと思う。
で、何が書いてあるかわかってみれば、今時の日本人とそう大差ないことを書いているに過ぎないので、そんなに分かりにくいものではないよ、と。この辺に関しては、近頃、日本の古い絵画の展覧会に行って、絵巻物などを見ると、これって今時のマンガと大差ないんじゃない?、と感じることが、あまりにも多いので、日本人の考えることというのは、昔から大して変わってないんじゃないかと思うようになっているから、素直に、そうだろうなあ、と受け止めた。源実朝って、そういうことを書いていたのか、と思うと、急に身近に感じられたりする。

書き言葉の表記の問題については、しばらく前に読んでいた、田中克彦の漢字廃止論に通じるものがあると思う。別に橋本治は漢字廃止論を語っているわけではないが、日本語を書き表すためには、それに向いた文字体系がある、という話であり(かな漢字混合が読みやすいと言っているから、漢字廃止論ではないよな。まあ、そもそも、そういう文脈の話をしているわけではない)、漢字というのが、どれだけタチが悪い文字か、ということも書かれているので。

それはそれとして、古典というのが、難しく重々しいものであるというイメージが形作られたのは明治時代だ、というのは、よくわかる。明治の新政府というのは、自分たちを権威づけるために、いろんなものをねじまげたんだよね。
江戸時代に、自分たちが抑圧されていたと思っていた連中が、天下を取った勢いで、偉そうに振る舞ったというのは、分かりやすい話ではあるけれど、それが原因で、日本はおかしな国になって、1945年に滅亡寸前まで行った。
そこで一旦はリセットされたけれど、執念深く生き残って、無反省に明治時代を賛美しようとしている連中が、また今、のさばっている。明治時代が、それ以前に比べて、すべてダメだったとは思っていないが、間違いなく、手放しで賞賛してよいような時代ではなかった。
こういうテーマも、結局、そういう所に行きついてしまうんだな、という感じがする。根拠がないもの、反省がないものは、きっちり批判していないといけない、ということだと思うんだが、今の日本は、国レベルでそういう所がまるでダメになっているよな。

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感想「ブレードランナーの未来世紀」

「ブレードランナーの未来世紀」 町山智浩 新潮文庫
80年代に製作され、カルト的な人気を博したアメリカ映画を解説する内容。元版は2006年の刊行。取り上げられている映画は、「ビデオドローム」「グレムリン」「未来世紀ブラジル」「ブルーベルベット」「ターミネーター」「プラトーン」「ロボコップ」「ブレードランナー」。
自分が一番映画を見に行ってたのは80年代の、これらの映画が公開された頃で、当時、「スターログ」とかの雑誌を読んでいて、映画の背景情報にも割と通じていたから、この辺の作品には思い入れがある。もっとも、グロそうだなと思って、見るのを敬遠したものもあるが…(「ビデオドローム」「ブルーベルベット」「ロボコップ」)。本書を読む限り、その判断は正しかったぽい。改めて見ようという気も、ちょっと起きない。映画そのものへの興味は沸いたけれど、グロい映像は苦手で。

見たことのある作品についての解説は、当然興味深かった。その作品が製作された背景から、ストーリーを追いつつ、個々のシーンが持つ意味までが、丁寧に考察されている。何度も見て、内容がかなり細かく頭に入ってる映画については(「ブレードランナー」「グレムリン」)、そうした解説で、さらに理解が深まったと思うし、そこまでの知識がない映画にでも(「ブラジル」「ターミネーター」「プラトーン」)、そういうことだったのか、と思わされる所が各所にあった。
ついでに言えば、見てない映画も見たような気にさせてくれた(^^;)。
じっくり書き込まれた、重みのある本だと思う。

ところで、巻末に「あまりにも多くのものがすでに作られてしまった。何をやっても誰かのレプリカになってしまう」というくだりがある。この前後に書かれている部分も含めて、それは近年、自分が感じていることだなと思った。映画、というか、フィクション全般について、昔ほど魅力を感じなくなっている、夢中にならなくなっているのは、多分、そのせい。
それと、その手前の段階として、過激なもの・グロテスクなものが、新しさを目指す手段として多用され始めたと思うし、その時点で、自分のフィクション離れが始まっていたような気もする。映画に関しては、そもそも、この本に取り上げられている作品群が、そのさきがけだったとも考えられる。だとすると、ある意味、自分にとっての映画への強い関心は、始まったと同時に終わっていたのかもしれない。
著者は「この先、新しい夢を見られるのはいつだろうか?」と結んでいるけれど、そこについては、自分はかなり悲観的。

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感想「幸運な男」

「幸運な男」 長谷川晶一 インプレス
ヤクルトスワローズのピッチャーだった伊藤智仁の半生記。
タイトルは、彼が「悲運のエース」と言われているが、実は幸運な男だったのかもしれない、と著者が思った、というところから来ている。というか、智仁自身が、自分の半生を振り返って、ラッキーだったと言っているのだそうで。本書を読んでいると、確かにそうなのかもしれない、とも思えてくる。不運は不運だけれど、特別な能力を持って特別な経験をしたのも確かだし、それは多分に幸運に恵まれてのことだった。おそらく、大多数の人間と同じくらい、いいこともあれば悪いこともある半生だったんだろうと思う。ただ、その振れ幅が、並みの人間よりも大きかった。そして、幸運も不運も同じくらいあったんだとすれば、それをどう取るかは、本人の気持ち次第だろうな。

もちろん、93年の劇的なデビューと、実働わずか3ヵ月での故障による離脱、以降の苦闘が、本書の内容の中心になる。
93年の故障については、当時の野村監督による登板過多が原因だと一般的に思われているし、本書を読んでも、それは間違いではないと思えるが、その後、復活するまでの道のりが長かったこと、復活した後も元通りにはならなかったことについては、それ以降の対応に、いろいろと失敗があったことも、大きく影響していることが分かった。智仁自身が判断を誤って、無理をしてしまった面もあったらしい。そもそも、智仁が凄いピッチャーになれたのは、身体の柔らかさに恵まれていたからだけれど、それが故障の大きな原因でもあったということになると、93年にああいう劇的な形で居なくなるということがなかったとしても、早晩、故障を発生していた可能性が高いような気がしてくる。あの頃の日本では、今ほど、投手のコンディションに注意が払われていなかったし、知識も普及していなかっただろうから、こうした特別な身体を持ったピッチャーに、故障なく、キャリアを全うさせる環境はなかったんじゃないだろうか。
そう考えると、「不運」だったのは、そもそもそういう身体に生まれついて、プロ野球のピッチャーになってしまったことそのもの、とも思えてくるし、それはもう、運・不運で語ることではないような気がする。

とはいえ、やっぱり、読んでいて、かなりつらい気分になる本だった。この先、どういうことが起きるかというのが分かっているからね。智仁のキャラに悲劇性がないのが救い。智仁の人間性がよく見えてきて、いいやつだなあと思うし、読んでよかったとは思ったが。

それにしても、智仁のこうした経験が、スワローズにどれくらい生かされているんだろうと思う。昨年の秋吉のリタイアには、智仁の経験が生きたというようなことが、本書には書かれているが、この10数年、このチームがどれだけの選手を故障で失ってきたかということを考えると、疑わしくなってくる。好意的に考えれば、早め早めに手を打っているから、故障離脱の選手が多くなる、ということなのかもしれないけれど(とてもそうは思えない事例を、いくつも聞いてはいるが)。それにしては、故障から万全で戻ってくる選手が、少なすぎるようにも思える。 経験を生かせていないとしたら、それはチームの怠慢だよ。
やたらと故障からの復活を美談にしたがるが、そんなものは、本当はない方がいいんだから。

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感想「黙殺」

「黙殺」 畠山理仁 集英社
マック赤坂など、一般的には「泡沫候補」と言われるタイプの選挙への立候補者(著者は敬意を込めて「無頼系独立候補」と呼んでいる)に取材したノンフィクション。主に2016年の東京都知事選を中心に描かれている。
ポイントは、メディアでの露出が「泡沫候補」と「主要候補」で圧倒的に違うこと、それによって、本来公平であるべき各候補者の選挙運動に大きな不公平が生まれていること。また、高すぎる供託金などによって、そもそも選挙への立候補のハードルが著しく高いことも、問題点として提起されている。
「無頼系独立候補」だからといって、政策がないわけではないし、特に国政選挙に関して言えば、政党の操り人形でしかない議員なんかより、よっぽど真剣に考えている人たちかもしれないんだから、彼らを無条件に「黙殺」するのは、確かに不当なことだと思う。

選挙で投票する時、近年はいわゆる「戦略的投票」というのを考えて投票することが多いし、「無頼系独立候補」は、そういう考え方とは共存しにくい存在と思うので、あまり好意的には考えないことの方が多い。でも、本書を読んでいると、本当は「無頼系独立候補」の方が民主主義を体現する存在かもしれない、とも思えてくる。少なくとも理想論としてはそうであるはず。確かに「戦略的投票」というのは、あくまでも最悪の結果を避けようとするための、多分に消極的な選択なんだから。
ただ、今の日本の選挙は、そういうことを考えないといけない状況にあると思うから、選挙での投票について、今のスタンスを変える気はないが。というか、そもそも、そういう候補が出てくる選挙にも、あまり遭遇しないけれど。それについては、どんな選挙でも、いろんな候補がどんどん出られて、それぞれの主張がしっかりと伝えられるように、選挙制度が変わるべきなんだろうとは思う。そうなれば、世の中の状況は、大きく変わってくるんじゃないだろうか。

それはそうと、今の選挙制度って、いろんな部分で、時代と乖離してしまっている気がしている。これだけビデオが普及して、ネットでの動画も当たり前になっている時代に、同じ内容の政権放送をテレビで度々再放送する必要があるんだろうか、とか。選挙公報だって、現実に投票日の直前にしか届かないことを考えれば、ネット配信を積極的に使えば、より柔軟な運用が出来るのでは、とか。著者が本書で書いている、選挙ポスターの掲示板のデジタル化もそう。今の時代なら、候補者に対する本質的には無意味に高いハードルを、下げる工夫は色々出来るはず。既成政党は「既得権益」を守るために、やろうとしないかもしれないが。
もっとも、今の状況を見ていると、既成政党であっても、成り行き次第で、こういうハードルが大きく立ちふさがってくる時代なんじゃないか、という気がする。選挙を、民主主義を支えるための制度として、しっかり機能させるために、この辺は真剣に考えるべき問題じゃないかと思う。
(2017.12.23)

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