感想「幸運な男」

「幸運な男」 長谷川晶一 インプレス
ヤクルトスワローズのピッチャーだった伊藤智仁の半生記。
タイトルは、彼が「悲運のエース」と言われているが、実は幸運な男だったのかもしれない、と著者が思った、というところから来ている。というか、智仁自身が、自分の半生を振り返って、ラッキーだったと言っているのだそうで。本書を読んでいると、確かにそうなのかもしれない、とも思えてくる。不運は不運だけれど、特別な能力を持って特別な経験をしたのも確かだし、それは多分に幸運に恵まれてのことだった。おそらく、大多数の人間と同じくらい、いいこともあれば悪いこともある半生だったんだろうと思う。ただ、その振れ幅が、並みの人間よりも大きかった。そして、幸運も不運も同じくらいあったんだとすれば、それをどう取るかは、本人の気持ち次第だろうな。

もちろん、93年の劇的なデビューと、実働わずか3ヵ月での故障による離脱、以降の苦闘が、本書の内容の中心になる。
93年の故障については、当時の野村監督による登板過多が原因だと一般的に思われているし、本書を読んでも、それは間違いではないと思えるが、その後、復活するまでの道のりが長かったこと、復活した後も元通りにはならなかったことについては、それ以降の対応に、いろいろと失敗があったことも、大きく影響していることが分かった。智仁自身が判断を誤って、無理をしてしまった面もあったらしい。そもそも、智仁が凄いピッチャーになれたのは、身体の柔らかさに恵まれていたからだけれど、それが故障の大きな原因でもあったということになると、93年にああいう劇的な形で居なくなるということがなかったとしても、早晩、故障を発生していた可能性が高いような気がしてくる。あの頃の日本では、今ほど、投手のコンディションに注意が払われていなかったし、知識も普及していなかっただろうから、こうした特別な身体を持ったピッチャーに、故障なく、キャリアを全うさせる環境はなかったんじゃないだろうか。
そう考えると、「不運」だったのは、そもそもそういう身体に生まれついて、プロ野球のピッチャーになってしまったことそのもの、とも思えてくるし、それはもう、運・不運で語ることではないような気がする。

とはいえ、やっぱり、読んでいて、かなりつらい気分になる本だった。この先、どういうことが起きるかというのが分かっているからね。智仁のキャラに悲劇性がないのが救い。智仁の人間性がよく見えてきて、いいやつだなあと思うし、読んでよかったとは思ったが。

それにしても、智仁のこうした経験が、スワローズにどれくらい生かされているんだろうと思う。昨年の秋吉のリタイアには、智仁の経験が生きたというようなことが、本書には書かれているが、この10数年、このチームがどれだけの選手を故障で失ってきたかということを考えると、疑わしくなってくる。好意的に考えれば、早め早めに手を打っているから、故障離脱の選手が多くなる、ということなのかもしれないけれど(とてもそうは思えない事例を、いくつも聞いてはいるが)。それにしては、故障から万全で戻ってくる選手が、少なすぎるようにも思える。 経験を生かせていないとしたら、それはチームの怠慢だよ。
やたらと故障からの復活を美談にしたがるが、そんなものは、本当はない方がいいんだから。

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感想「黙殺」

「黙殺」 畠山理仁 集英社
マック赤坂など、一般的には「泡沫候補」と言われるタイプの選挙への立候補者(著者は敬意を込めて「無頼系独立候補」と呼んでいる)に取材したノンフィクション。主に2016年の東京都知事選を中心に描かれている。
ポイントは、メディアでの露出が「泡沫候補」と「主要候補」で圧倒的に違うこと、それによって、本来公平であるべき各候補者の選挙運動に大きな不公平が生まれていること。また、高すぎる供託金などによって、そもそも選挙への立候補のハードルが著しく高いことも、問題点として提起されている。
「無頼系独立候補」だからといって、政策がないわけではないし、特に国政選挙に関して言えば、政党の操り人形でしかない議員なんかより、よっぽど真剣に考えている人たちかもしれないんだから、彼らを無条件に「黙殺」するのは、確かに不当なことだと思う。

選挙で投票する時、近年はいわゆる「戦略的投票」というのを考えて投票することが多いし、「無頼系独立候補」は、そういう考え方とは共存しにくい存在と思うので、あまり好意的には考えないことの方が多い。でも、本書を読んでいると、本当は「無頼系独立候補」の方が民主主義を体現する存在かもしれない、とも思えてくる。少なくとも理想論としてはそうであるはず。確かに「戦略的投票」というのは、あくまでも最悪の結果を避けようとするための、多分に消極的な選択なんだから。
ただ、今の日本の選挙は、そういうことを考えないといけない状況にあると思うから、選挙での投票について、今のスタンスを変える気はないが。というか、そもそも、そういう候補が出てくる選挙にも、あまり遭遇しないけれど。それについては、どんな選挙でも、いろんな候補がどんどん出られて、それぞれの主張がしっかりと伝えられるように、選挙制度が変わるべきなんだろうとは思う。そうなれば、世の中の状況は、大きく変わってくるんじゃないだろうか。

それはそうと、今の選挙制度って、いろんな部分で、時代と乖離してしまっている気がしている。これだけビデオが普及して、ネットでの動画も当たり前になっている時代に、同じ内容の政権放送をテレビで度々再放送する必要があるんだろうか、とか。選挙公報だって、現実に投票日の直前にしか届かないことを考えれば、ネット配信を積極的に使えば、より柔軟な運用が出来るのでは、とか。著者が本書で書いている、選挙ポスターの掲示板のデジタル化もそう。今の時代なら、候補者に対する本質的には無意味に高いハードルを、下げる工夫は色々出来るはず。既成政党は「既得権益」を守るために、やろうとしないかもしれないが。
もっとも、今の状況を見ていると、既成政党であっても、成り行き次第で、こういうハードルが大きく立ちふさがってくる時代なんじゃないか、という気がする。選挙を、民主主義を支えるための制度として、しっかり機能させるために、この辺は真剣に考えるべき問題じゃないかと思う。
(2017.12.23)

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感想「イザベラ・バード」

「イザベラ・バード」 パット・バー 講談社学術文庫
明治時代の初期に日本を訪れた、イギリスの女性旅行家の伝記。2013年の刊行。
この人が奥羽地方や北海道を旅した体験は、「日本奥地紀行」という、割と有名な本にまとめられ、山形県の南陽市にはイザベラ・バード記念塔というのもあるとか。ただ、イザベラ・バードという名前は知っていたが、実質的なことはあまり知らなかったので、本書を読んでみた。

この人は日本だけでなく、世界各地、しかも辺境的な地域を好んで旅していた人物だったと、初めて知った。イギリスでの日常生活の中では平凡な女性で、むしろ病弱なくらいだったのが、40代になって旅に出ると、別人のように活気にあふれた人間になったというのが、当時のイギリスでの女性の抑圧ぶりを示しているように思えた。それにしても、並みの人間であれば男でも行かないような、厳しい環境や危険な場所へも行ってしまうんだから、並大抵のことじゃない。火山の火口の近くとか、極寒の山奥とか。それほど強い、抑圧への反動があったということなんだろうか。
以前、「ヒマラヤ自転車旅行記」という本を読んだことがある。40代半ばのイギリス人女性がヒマラヤの麓を自転車で走破した体験談で、これも結構無茶な話だった。通じるものがあるのかな、と思ったが、日本人女性の冒険家も結構居ることを考えると、一定の割合で、そういう人物はいる、というだけの話かもしれない。

19世紀末の世界各地の状況が見て取れる所も、興味深かった。アメリカに併合される前のハワイ、中国ではなくイギリスの支配下にあるチベット、マレー半島への中国人の浸透ぶりなど。当時の日本の田舎の悲惨な風景も描かれていて、まあ、そんなもんだったんだろうなあ、という感じではある。バードは北海道ではアイヌと会っていて、この時点では、まだアイヌは民族として、しっかり存在していたように思える。それから100年かそこらしか経ってない今の日本では、レイシストが、アイヌなんていない、みたいなことを言ってしまうような状態になっている。虚しい感じがする。

それにしても、本書の翻訳にはかなり違和感を持った。読みにくい文章な上に、明らかに誤りと思われる個所もある。最後の方には、原著から一部割愛したとのお断りが入っている章があるが、理由が書かれていないので、翻訳の問題があったんじゃないんだろうかと疑ってしまった。もうちょっと何とかならなかったんだろうか。
(2017.10.10)

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感想「言語学者が語る漢字文明論」

「言語学者が語る漢字文明論」 田中克彦 講談社学術文庫
著者の「自伝」を読んだタイミングで、同書でも言及されていた本書が目に止まったもので、つい買ってしまった。8月に出た文庫版。
2011年に出た元版は「漢字は日本語をほろぼす」というタイトルで、今回文庫化にあたり、あまり挑発的でないものに改めたそう。けれども、元のタイトルの方が、本書の主張を、より直接的に表しているのは間違いない。大量の漢字を覚えるのに膨大な労力を必要とするせいで、日本語が使い勝手の悪い、将来性のない言語になっている、日常の言語としては漢字を使わないようにすべき、というのが基本的な主張なので。

主なポイントは、ひとつは、漢字を覚えることに労力を費やすために、教育の中でそれ以外のことがおろそかになって、失われているものが多い、ということ。もうひとつは、外国語人が日本語を習得するハードルを上げてしまっているので、国際化への対応が困難になっているということ。
自分自身は、好き好んで複雑な漢字を使ったりするし、漢字のややこしい特徴を面白いと思っている人間だけれど、本書で主張されていることは理にかなっていて、納得のいくものだと思う。マニアックな漢字への愛好は、本来、日常の実用性とは違う所で語られるべきものだろう。

カナモジ会やローマ字運動などのことは、以前から知っていたけれど、何か胡散臭いものとしか思っていなかった。こういうふうに漢字のデメリットを説かれてみると、そういう運動が生まれた必然性がよくわかる。
なぜ、そういう運動が広がらないかといえば、一旦漢字を覚えてさえしまえば、かなり便利だからというのはあるだろうな。文字というより記号に近いので、一目で多くの情報が得られる利点がある。だから、既にそういう環境に適応してしまっている人には、漢字を使わないことはデメリットとしか感じられない。自分でも、漢字はあった方が便利だし面白いというのが、問題意識とは別に、本音ではある。
けれども、適応できていない人、これから適応を迫られる人にとっては、ハードルがとても高いということは理解した。漠然と分かってはいたと思うけれど、割とレアなケースという気がしていて、あまり深刻には考えていなかった気がする。実際には、目の前の問題として、外国から人を受け入れることが重要になっていたり、子供の教育のレベルが低下しつつある現実があるわけで、十分深刻なテーマになりつつあるんだな。

ベトナムや朝鮮は漢字を捨てて、ラテン文字やハングルに乗り換えたわけだけど(厳密にはベトナムは漢字ベースの字喃も含むのかな)、識字率の低さというのが背景にあったはず。そういう状況も日本にはないと思うし。
とはいえ、識字率が高いというのは、多分、カナが読めるということだろう。漢字が読めないというのは、日常的によくあることだし。
その辺を考えると、本書で問題例として引かれているような難しい漢字は、日常的にはそんなに要求はされていない気もして、議論を日常から少し離れた所へ持って行き過ぎている気はしないでもない。特殊な分野での難しい漢字使用がもたらしている、権威主義や閉鎖性の問題は、よくわかるけれど。
もっとも、日常的に使っている漢字だけでも、十分に多過ぎる、とは思う。そういう観点からすると、公文書で使える漢字を広げていく昨今の流れは、あまりよいことではないことはず。そんなことは、今まで考えもしなかった。

それ以外にも、今の日本の状況の本質に関わるような深い問題をいろいろはらんでいて、予想していたよりも、はるかに深いテーマだと思った。反論するにしても、感情的な漢字支持論で済むような問題じゃない。

それにしても、過去に意識せずに読んでいたいろんなテーマの本が、この本を中心に繋がっているようで、著者と自分のシンクロ率の高さを感じた。というか、自分が無意識にこの人に感化されているのかもしれない。この人の著書は、結構読んでるし。

ところで、朝鮮のハングル採用には、ナショナリズムの高揚も背景にあったはずだけど、日本の「ナショナリスト」は、中国製のものを批判するのが好きな割に、なぜか漢字を愛好する傾向があるように思える。その辺にも、漢字使用と権威主義や閉鎖性の関連が、見えるような気がする。
(2017.9.10)

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感想「「野球」の誕生」

「「野球」の誕生」 小関順二 草思社文庫
先月の新刊。2013年に別題(「野球を歩く」)で刊行された本の文庫化とのこと。

渡来から1950年代頃までの日本の野球の有り様について、球場(練習グランド的なものも含む)を切り口にして語った本。
取り上げられている球場は、なくなって50年以上経つような昔のものが多く、近年増えてきた、昔の球場について書いた本でもある。著者は、2015年に旧新橋停車場で行われた「野球と鉄道」展の監修者でもあるとのこと。
各球場についてのエピソードは興味深いものが多いが、野球自体が日本の中でどういう風に受け入れられてきたかというのが概観出来る所もいい。何ヵ所かに出てくる正岡子規の野球好きのエピソードは特にいいな。
あとは大宮公園球場のくだりが、身近な球場なので(という割に入ったことは一度しかないが)、書かれている内容に実感があった。

それから、時節柄、特に強い印象が残ったのは、主に後楽園球場のくだりで語られる、太平洋戦争で戦没した野球人のエピソードだった。日本の野球の歴史を遡っていくと、戦争で無駄に死ななきゃいけなかった野球人や、野球そのものが敵性スポーツとして国から白眼視された時代という所を、必ず通ることになる。そういう意味では、今でもこれだけの規模の人気や影響力を保っている野球を通して、戦争を語るというのは、かなり有効な手段のように思える。また、野球に関わる人間(必ずしもプレイヤーに限らない)が、過去にそういう理不尽な時代があったことを意識し続けるというのも、意味があることなんじゃないだろうか。
(2017.9.4)

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感想「田中克彦自伝」

「田中克彦自伝」 田中克彦 平凡社
著者はモンゴル語が専門だが、専門外の領域でも独特な活動をしている言語学者として、結構有名な人。専門家向けではない著書も多い。そういう本を結構読んでいるが、この人の著書を積極的に探して読む、というほどのファンではない。普通なら自伝まで読むことはないはずだが、今年初めに偶然書店で見掛けて、つい買ってしまった。昨年の末に刊行されたものらしい。

本人も自覚して書いている感じだが、内容はかなりとりとめがない。こんなことがあった的な話が、一応編年体で綴られているものの、時々前後したりするし、人名などの固有名詞も注釈抜きで出て来ることが多いので、時々、わけがわからなくなったりする。
それでも、1934年に生まれて、太平洋戦争、戦後の混乱、60年安保や大学紛争などについて、実体験として経験してきたことを語っている内容は、その時代の雰囲気が生々しく伝わってきて、興味深いものではあった。
かなり無茶をしてきた人だったんだな、というのは、よく分かった。だからこそ、あれだけ多彩な活動も出来ているんだろうが。実名で遠慮のない人物評を書いている所があちこちにあり、かなり食えないおっさんらしい(^^;、とも思った。

所々、別の方面で知っている人名や地名が出て来るあたりも興味深かった。特に、外国の小説の翻訳家として名前を知っている人物が結構出て来て、繋がっているんだなと感心したり。もっとも、翻訳家は語学に関わる仕事(しかも本職は大学教授だったりする)なんだから、関係があっても、不思議はないか。
そういう人脈の広さも、活動領域の広さと関係があるんだろう。人脈は大切だなと思ったりする。

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感想「日本の地霊(ゲニウス・ロキ)」

「日本の地霊(ゲニウス・ロキ)」 鈴木博之 角川ソフィア文庫
1999年に刊行された本の文庫化で、今年3月の刊行。

「地霊」というと、禍々しい感じがするが、その土地の成り立ち・来歴などの蓄積を指す言葉だそう。ただし、「霊」のような不合理な要素も排除しているわけではなく、そうしたすべてをひっくるめたもの、という概念らしい。本書は建築史家の著者によって、その土地の「地霊」を無視しては、建築は成り立たない(建築するべきではない)という観点から書かれたもの。
ただし、開発的な行為そのものを否定的に捉えているわけではない。あくまでも、「地霊」を顧みない、画一的な開発や場当たり的な開発を批判している、と感じる。

本書の内容自体は、あちこちの土地や建物の来歴を、見てきて語る、というものだから、思想的な部分を除くと、全体的な印象は、より専門的なブラタモリ?、みたいに思える。もっとも、タモリにも、似たような思想は、多分あるような気はする。テレビ番組の中では、尺が短いこともあるので、それを露骨に見せることはないけれど。

今まで、あまり考えたことのなかった建築の思想ということについて、考えさせられる内容ではあった。たとえば、身近な所で、国立競技場の建替えの考え方などにも絡んでくる話だと思う(解説を隈研吾が書いているので、容易にそういう連想が働く)。ただ、「地霊」という言葉に引きずられて、もう少し、あやしい内容を期待していた所はあったので、やや期待外れだった感はある。
とはいえ、行ったことのある場所、馴染みのある場所がいくつか取り上げられていて、興味深かったし、特に広島については、これを読んでから現地に行っていれば、色々考えることがあったかもしれないな、と思った。まあ、また行けばいいのか。いつかはマツダスタジアムに行くつもりだし。そういえば、広島市民球場というのも、こういう建築思想的なものを考える必要性が高い場所だったのだろうな、と思った。
(2017.7.25)

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感想「絶対東京ヤクルトスワローズ!」

「絶対東京ヤクルトスワローズ!」 坂東亀三郎、パトリック・ユウ さくら舎
2015年の7月に出た本で、出た当時に読んだが、読み放しになっていた。片付けしていて本が出てきたので、ぱらぱら読み直したついでに、少し書き残しておくことにする。
サブタイトルは「スワチューという悦楽」。坂東亀三郎は、当初のいきさつはよく覚えてないが、昔からのヤクルトファンの歌舞伎役者として、(少なくともヤクルトファンの間では)知られるようになった人。パトリック・ユウは、言わずと知れたスタジアムDJ。この2人がそれぞれ、ヤクルトについて語り、対談もする内容。末尾には、それ他のファン20人の「メッセージ集」も収録。何年かに一度、ぽろっと出るタイプの本だが、今回のものは、著者の顔触れを見ると、だいぶ球団側が関与して出したのかもしれない。

坂東亀三郎は「丸スワ」での文章などを読んでいると、古参のファンだというのはよく分かるが、この本を読むまでは、そんなにはっきりした印象は持ってなかった。結局、「丸スワ」というのは、チームが全面的に関わって出している広報誌だから、当然、書く文章には制限がかかるだろうし(少なくとも書く方は、それなりに意識して書くと思う)、まあ、書き手の立場の特殊性から来る面白さはあるにしても、それほど大した内容でもないと思っていた。本書も、当然、チームの協力がなければ成り立たない本だろうが、やはりスタンスが少し違って、チーム的にはあんまり言って欲しくなさそうなことを、遠慮せずに書いている感じがしたし、そういう所に、結構共感もした。
結局、弱くてファンも少ないチームだった時代に、ヤクルトに共感してファンになるってことは、どこか屈折したものがあるわけで、ヤクルトのそういう時代からのファンには、今みたいなチームの運営のされ方に、微妙に違和感を感じている場合が多いんじゃないかな、という気がする(古参のファンが書いた文章を読むと、そういうのが垣間見えることが多い)。この人についても、この本を読んで、その辺がちょっと見えたことで、読む前よりも共感度が上がった。もちろん、外野の外野で応援しながら観戦してる人なので、根本的に自分とは感覚がかなり違うけど。
そもそも、自分自身はファン歴30年以上のつもりではいるけれど、球場で試合を見始めたのは実質1993年以降だし(もっとも、そこからでも、もう25年になるか…)、いろいろ細かく掘り始めたのは、さらに後だから、80年代から球場に通っていた古参のファンとは、やっぱり感覚がいろいろ違うと、日頃から思ってはいる。ちょっと、引け目みたいなものもあったりして。

パトリック・ユウについては、話が全然違ってくる。千駄ヶ谷の生れで、幼少時にヤクルトと縁があった、といったエピソードは出て来るが、神宮のスタジアムDJを始める前に、ヤクルトに特に思い入れがあったわけでもないし、この本が出た時点では、既にチームと仕事をしていたわけだから、優等生的な内容以外のことを書けるはずもない。
しかも彼は、このところ、かなり嫌いになってきた、今のチームのスタジアム演出を象徴している人物でもあるので、なおさら共感的な気持ちは薄い。彼がDJを始めた最初の頃は、演出的なことをやらな過ぎるチームだったから、新鮮味があって、むしろ歓迎する気分だったが、今では、やり過ぎ感が漂っていて、もういいよ、という感じ。試合やプレーの中身がショボいのを、演出でごまかそうとしてる感も顕著だし。
チームの裏話的な部分は興味深いが、それ以上の面白さはなかった。

ちなみに、この本が出た2015年にチームはリーグ優勝したわけで、今読むと、その年の序盤の雰囲気が感じられる。何か起きそうな気配はあったのかな、という感じが、ちょっと見えているような気がする。
(2017.8.11)

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感想「いつも、気づけば神宮に」

「いつも、気づけば神宮に」 長谷川晶一 集英社
1980年以来のファンという著者による、ヤクルトスワローズ本。
自身の観戦の記憶を元に、9つの「系譜」を設定して、昔の選手やスタッフにインタビューを行い、テーマ毎にまとめている。
さすがにファン歴が長い上に、かなり深いだけあって、インタビューの内容も相手も、ツボを心得ている。通りすがりのライターには期待出来ない、と思われる充実ぶり。
特に、日頃、あまりインタビューが行われないような、大物以外の人たちから聞いている話が興味深かった。渋井とか八重樫とか。それに苫篠弟(今は兄がヤクルトのコーチだが)。

スワローズの全てについて肯定的な、アバタもエクボみたいな強引なまとめが、気にならないわけではない。インタビューされた人たちは、軒並み、ヤクルトはいいチームと口を揃えるし、著者はそれをそのまま肯定する。そんなわけはないだろと思う理由はいくつもあるから、嘘つくなよとは思うが、球団の全面協力がなければ成り立たなそうな本てある以上、それを言ってもしょうがないわな。
外部からの視点として、広沢へのインタビューに基づいて、チームに対する必ずしも肯定的でない意見を、多少入れているあたりに、チームべったりではないという所を、一応見せようという意識を感じる。でも、結局、そうはいっても…、という所に落としていくんだが。
もう少し、客観的に見て納得出来る球団分析は出来ないものかな、とは思う。スワローズはいいチームと言いつつ、他のチームのことは知らないけれど、という但し書き付きで語っている人が何人かいる。そういうのは、全然、客観的な評価じゃないから。そういう意味でも、広沢のコメントが入っているのが、意味があるわけだけど。

ただ、本書に関しては、そうした欠点を補うだけの情報量はあると思った。
あとは、まあ、長年チームのファンだった人間にとって、そのチームが客観的にいいチームかどうかは、実はどうでもいいことなんだよな、とも思った。
自分も何だかんだ悪口言いつつ、鞍替えしようとは思わないし。でも、客観的な証拠が得られない限り、スワローズが一番いいチーム、というような言い方をする気はない。それとこれとは話が別。アバタはあくまでもアバタ。
(2017.6.7)

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感想「明治維新という幻想」

「明治維新という幻想」 森田健司 洋泉社歴史新書
先日、山形へ行った時、市内の本屋で買った本。幕末の山形のことを考えている時に、本屋で目に止まったんで、なんとなく買っちゃった。昨年末に出た本らしい。

サブタイトルは「暴虐の限りを尽くした新政府軍の実像」という、かなり煽情的なもの。明治維新の時の新政府軍が、どれだけ酷い連中だったかということと、その後の明治政府のイメージ戦略によって、その実像がどういう風に改変されて、現在に伝えられているか、というあたりの話。
筆致はかなり挑発的ではあるけれど、歴史資料をベースに書いているものなので、記述されている内容そのものは、信頼がおけるだろうと思う。
幕末期に描かれた、新政府軍を揶揄する浮世絵を紹介するくだりなど、興味深い話がいろいろあった。また、庄内藩については、親近感を感じていた土地の割には、あまり知らなかったので、そういう歴史があったのかと。

もっとも、全体的には、認識を大きく覆されるような内容ではなかった。俺は新潟県生まれで、長岡とは縁がなくもないし、会津も結構身近な土地だったから、子供の頃から、明治維新に関しては新政府軍に反感を持っていたので、こういう関係の本は割と読んでいた。それに、明治維新に肯定的な書き方をしている文献でも、当時の新政府軍のやり口については、必ずしも肯定的には書かれていなかったりするのを、結構読んだ記憶がある。そういう理由で、それほど目新しさは感じなかった。

本書の筆者も、江戸時代が完全無欠だったとは思っていない、と書いている。個人的には、江戸時代の体制に疑問を感じている人間が、薩長以外にも少なからずいたから、明治維新が成立したんだろうとも思っているので、一面的に、どっちがいい悪いという話をするのは、あんまり意味がないと思う。
ただ、新政府軍がその後やってきたことの帰結が太平洋戦争だったのは間違いないし、さらにそれが、巡り巡って、今の政府のでたらめなやり口に、つながってもいる。
少なくとも、無条件で明治維新やあの時代の新政府側の人間を讃えるのは、間違っているし、危険だと思う。だから、そういうことをやりかねない(現にやってる)人間が、この国の権力の中心に居座っているのは、おっかなくてしょうがない。
(2017.5.16)

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