感想「プロ野球「経営」全史」

「プロ野球「経営」全史」 中川右介 日本実業出版社
日本のプロ野球の歴史について、球団の経営者の側からたどっていくという、かなり斬新と思える内容。個々の球団について、親会社の変遷を紹介する文献は結構多いけれど、全球団を網羅した上に、ひとつひとつの変化の背景を丁寧に説明したものは、初めてなんじゃないだろうか。
とても面白かった。プロ野球のオーナー企業の変遷を切り口にすることで、プロ野球と政財界のつながりだけでなく、財界や産業の歴史そのものをここまで語れるというのも興味深かったし、いろんなことを教えてもらった。
一方で、ここ20年くらいで一気に増えた、プロ野球の球団やリーグの歴史に関する研究本の積み重ねの上に成り立った本だな、とも感じた。個人が独力で、一からここまで調べ上げるのは、容易なことではないはず。とはいえ、参考文献に挙げられている本は何冊か読んでいるけれど、それにしても大量なので、そうそう読めるもんでもない。よくまとめ上げたと思う。また、この本自体が、そういう書籍群へのガイドにもなりそう。
ちょっと情報量が多過ぎるので、情報の正確性の裏取りとか、校正とかが、どれくらいちゃんと出来てるんだろう、という不安は少しある。まあ、そこは自分でも鵜呑みにしないで、個々に検証すればいいことかもしれない。
読んでいて、印象的だった部分はいくつもあるが、特に興味深かったのは、東京スタジアムがなくなってしまったいきさつを書いたくだり。東京スタジアムというのは、行ったこともないくせに、いろんな場所で読んだり、映像を見たりして、知識が増えるにつれて、自分にとって、一種の夢の球場みたいな存在になっている場所。そこをあっさり消した張本人が、ロッキード事件で有名な小佐野賢治だったとは。知らなかった。
それから、読売とかフジサンケイグループの歴史について書かれているあたり。財界が保守的なメディアを作るために支援した、といういきさつが書かれていて、そりゃあこいつらが御用メディアなのも当たり前か、と思った。
ヤクルトというのも、どうも謎めいたところのある会社だなと思ってたけど、よくわかった気がする。国鉄→サンケイ→ヤクルトという、スワローズの親会社の変遷も、わかったようなわからないようなとずっと思っていたけれど、こうした繋がりがあったと知れば、すんなり納得してしまう。
また、西鉄が太平洋になって、クラウンライターになって、西武になったという時期はかなり覚えているけれど(同時期に、東映が日拓になって、日本ハムになった、というのも合わせて)、その背景や、単純なオーナー企業間の譲渡ではなかったといういきさつも含めて、ここまで丁寧に説明されているのは初めて読んだし、興味深かった(それこそ、おそらく参考文献のどれかに、もっと丁寧に説明されてはいるんだろうが)。
総じて感じるのは、少なくとも1980年代に差し掛かるまでは、プロ野球の経営というのは、結構おおざっぱなものだったんだな、ということ。ある意味、企業にも遊び心があった、おおらかな時代だったということなのかもしれない。先日亡くなった水島新司の「野球狂の詩」に描かれている東京メッツの経営は、かなり場当たり的で適当で、漫画だからなあ、と思っていたのだけど、あの時代のプロ野球の経営なんて、案外あんなもんだったのかもしれない、という気がしてきた。
球団経営がシビアになってきたのは、おそらく、バブル期を経て、それが弾けた後で、本格的には21世紀に入ってから。近鉄が消滅したり、ヤクルト球団が(だけじゃないと思うが)やたらと金儲けに熱心になったのも、そういう流れの上にあるんだろうな、と思う。
(2022.3.27)

[追記 2022.5.3]
東京スタジアムの消滅に小佐野賢治が関わっていた件については、以前、「スタジアムの戦後史」で読んでいたらしい。たまたま気付いたので追記しておく。ちなみに、「スタジアムの戦後史」は本書の参考文献には入っていない。

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感想「独ソ戦」

「独ソ戦」 大木毅 岩波新書
第二次世界大戦でのドイツとソ連の間で戦われた戦争(独ソ戦)の全体像を、新書サイズでまとめた本。本書は2020年の新書大賞というのを獲得している。その時に読んだ紹介記事が興味深かったので、読もうかと思ったが、ちょっと手が出切らなかった。しかし、今起きているロシアのウクライナ侵略の動きが始まったところで、また注目されるようになっているという話を聞いて、やはり読んでみることにした。
元々、自分は戦記的なものにはほとんど関心がないし(それが最初のタイミングで読まなかった主な理由)、戦記以外でも、自分の日頃の興味の範囲からすると、ヨーロッパの第二次世界大戦に関しては引っかかってくるのは、主に英米仏あたりが絡んでいる部分なので、独ソ戦については、ほぼ知識がなかった。ただ、本書はそういうシロートの入門書的なものも意識して作られた本だったので、馴染みのない読者が読むには適した本だったように思える。読んでいて、すんなり内容が入って来て、おおざっぱに全体像も把握できた気分になった。

最初の方を読んでいると、ヒトラーとスターリンという、二人の頭のおかしい独裁者がおっぱじめた、陰惨な戦争という感じがしたし、そのイメージは今のロシアのプーチンの姿とも重なった。彼らの病的な思い込みと雑な展望が、大量に人命を損なう事態を招いたという感じだったから、独裁者ってのが、いかに危険な存在かということが、読み取れるように思えた。そもそも独ソ戦以前に、ヒトラーもスターリンも、自分と相容れない人間は殺して構わないと思っているような連中だったわけで、そういう人物が誰にも止められない独裁者という立場に就くことが、どれだけ危険かと、改めて感じた。(じゃあ、そうでない人間なら独裁者になってもいいのか、というのは、また別の話)
ソ連に関しては、その理解は当たっているように思える。ヒトラーに吹っ掛けられた戦争に対する、独裁者の稚拙な対応が悲惨さを拡大した、という構図に見えるし、愚かさは今のプーチンによるロシアのウクライナ侵攻にかなりかぶって見える。今回のロシアは戦争を吹っ掛けた側、という違いはあるが。ただ、「劣等民族」の排除を掲げるようなドイツに対したことで、ソ連の人々の間にも、民族の殺し合い的な要素が強まっていくんだな。

しかし、ドイツについては、ヒトラー(とその一味)が(自分たちに忠実な)ドイツ国民に対して、好待遇を持って接していたこと、それによって生まれた国民の支持が、ドイツの戦争遂行を助けたという部分に触れて、それだけではないと思えてきた。ドイツ国民が、自分たちの豊かな生活が、他国からの収奪によるもので、ヒトラーの戦争がそれと一体であることを知った上で(知ったからこそ)、戦争を支持していたというなら、陰惨な戦争は、ヒトラー一味だけの責任ではなくて、それを支持した多くのドイツ人の責任でもあることになる。
この構図は、第二次世界大戦の前夜から、日本が大陸に侵攻して、満州国を設立するなどの侵略活動を行い、それを日本国民の多くが支持していたことに、とてもよく似ている。本書の終章にも、それに類したことが書かれていて、確かにその通りと思った。
つまり、独裁者だから危険という話ではないのだな、と思った。真に危険なのは、自分たちの利益のために、他国や他民族の犠牲を全く顧みない感覚にある、と思えてきたし、独裁者ばかりがそれを誘導するわけではなく、排外的な空気の中では、民主主義下でも起こりうることだな。ただ、民主主義では多様な意見が尊重されなくてはいけないし、そうした環境であれば、悲惨な状況に陥った後からでも、軌道修正は可能なはず。独裁者の思い込みで突っ走っていくだけの体制よりは、はるかにマシ。それが民主主義の意味だと思う。(そして、反対意見が権力側から抑圧されたり、権力側への忖度で自主規制されるような状況になったら、それはもはや民主主義の機能を失っている)

戦争がこういう構図で起こされることがあるというのを知っておくことは、この国が無駄に陰惨な戦争に向かわないように警戒するために、必要だろうと思う。今のこの国で権力を握っている人々は、第二次世界大戦の時と同様に、現実を見ようとせず、思い込みのみで動くような人々に見えるし、それはとても危険な状況だと感じている。

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感想「「帰ってきたウルトラマン」の復活」

「帰ってきたウルトラマン」の復活 白石雅彦 双葉社
「帰ってきたウルトラマン」の企画から放送終了までの製作サイドの動きを、細かく資料や当時の関係者に当たって検証した本。昨年の刊行で、夏ごろ、書店で見て買ったが、すっかり忘れていて、今年になって読んだ。

「帰ってきたウルトラマン」の背景にあったものが、とてもよくわかった。本放送時は子供だったから、多分、放送されたものを、そのまま素直に受け止めていたけれど、ある程度、年齢が上がってから見直した時には(本放送の後、いろんな年齢の時に、見返す機会は何度かあった)、なんでこうなるんだろうと違和感を感じたりした部分が、丁寧に分析されている。見ていた時には、あまり気付かなかった部分も含めて、本放送当時に作品が持っていた意味が、よく見えて来て、そういうことだったのか、と思うことだらけだった。また、作品を見て、当時、自分がどんなことを考えていたかというのも、いろいろ思い返すことが出来た。とても興味深かった。

「帰ってきたウルトラマン」は、70年代の特撮ヒーローものに、どっぷりつかって育った自分にとっても、特に思い入れがある作品で、見返した回数が多く、内容もかなりよく覚えている。当時の特撮ヒーローについての本は、以前はよく読んでいたものの、近年はあまり読んでいなかったが、そういうこともあって、本書は店頭にあるのを見て、つい買ってしまった。
あとがきで本書の著者が、「帰ってきたウルトラマン」を、自分にとって特別な作品と位置付けているというようなことを書いているのだけど、多分、その気持ちと自分の感覚はかなり似ている。著者は自分よりも少し年上だけれど、まあ、同世代といっても通るくらいだし、「帰ってきたウルトラマン」の本放送当時の周囲の状況(地方在住で、民放テレビ局の局数が少なかったり、ヒーローものはガキのものという、周囲の感覚が強かったり)もかなり似ていて、そういうところから似たような感情が生まれているんだろうなと思う。とても興味深く読めたのも、そういう共感があったからなんだろう、という気がする。

こういう本を読むのは、ただのノスタルジーのように思えてきたのが、あまり読まなくなってきた理由の一部なのだけど、本書に関しては、自分のバックグラウンドを振り返るものと思えた。当時の特撮ヒーローものは、自分の中の深い所に密接に結びついていて、「帰ってきたウルトラマン」のように、特に強い印象を受けた作品からは、自分のものの考え方とか生き方とかに、ものすごく影響を受けていたりする。いまさら、そんな振り返りから何かが生まれる、というようなことはなさそうではあるけれど、本書に関しては、自分の根っ子を再確認したという点で、読んだことに、それなりに意味はあったように思える。
ただまあ、この著者が出している、他のウルトラシリーズについての本を読もうとまでは思わないけれど。「帰ってきたウルトラマン」ほど、自分にとって特別な重みがある作品は、他にはないし。

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感想「エラリー・クイーン完全ガイド」

「エラリー・クイーン完全ガイド」 飯城勇三 星海社新書
おそらく日本で一番エラリー・クイーンに詳しい著者による、3度目の「エラリー・クイーン」の「完全ガイド」。ただし、ぶんか社から出ていた前2冊からは大幅に改訂していて、完全に別の本になっている。
ガイドの体裁を取りながらも、前2冊とは異なり、振り切って、書きたいことを書いているという感じがする。全篇に渡って、エラリー・クイーンの作品に対する愛情を、ストレートに表明していて、ガイドというよりは、この著者らしいエラリー・クイーン研究本だと思う。
たとえば、数多くの作品の中には、当然、あまりぱっとしないものもあるのだけれど、そういう作品についても、こういうふうに読めば優れた作品として読めるのだという、かなり強引とも思える理屈付けで賞賛していたりする。この著者らしい紹介の仕方ではあるけれど、「ガイド」としてはどうなのかなと感じる。こういう書き方は、全く読んだ経験のない読者には、特定の角度からの読み方を押し付けることになりかねないし、これが通じるのは、むしろ既にある程度読み込んだ読者に限定されるように思える。
他にもいくつか気になる点がある。ただ、
それらも本書を著者の作家論・作品論と考えれば、あくまでも著者の裁量の範囲内と思うし、むしろ、著者の方向性や好みが明確になっていると言える気がする。本書のタイトルが「ガイド」になっていることには違和感があるし、自分がエラリー・クイーンに対して感じている面白さとは、だいぶ視点が違うとも感じるけれど、主張していることは理解できると思った。
本書内にもそれらしい記述があるが、おそらく、もっとニュートラルなガイドを求めるのであれば、(今は品切れのようだけれど)過去2冊のガイドを読んで欲しい、ということなのだろうな、と思った。


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感想「僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー2」

「僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー2」 ブレイディみかこ 新潮社
「僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー」の続編、というか、雑誌連載をまとめたもののはずなので、単純に続きだと思う。
なので、感想と言っても、前作と大きくは変わらない。当時の感想を読み返してみたら、感想もほんとに変わらないので、改めて書くこともないな、という気がしてしまった(^^;。時間が少し進んで、少年が成長して、ということになるのだけど、そこで極端に何かが変わっているわけでもない。
それにしても、中学生レベルの「一般的な」子供たちが、そうではない人たちのことを、これだけ考える世の中ってのは偉いと思う。主人公格の著者の息子は、「一般的」というよりは、少し特殊な立ち位置かもしれないけれど、彼が通う学校の同級生たちの大半は、その社会の中では多数派を占める「一般的な」子供たちだと思うし、彼らも主人公と同じレベルで考えたり、悩んでいたりするわけだから。
考えざるを得ない環境に居る、という捉え方をするなら、考えなくて済んでる(ように思われる)日本の方が、環境としては気楽なのかもしれないけれど、日本だって、実際には、そうではない人たちがたくさん居て、そのことを考えなくちゃいけない状況は存在している。それなのに、考えない方が自分のため、というような形で、関わらないように誘導されている、というふうに思える。しかも、子供だけじゃなくて、大人も。そんな世の中は望ましくないと思う。

本書の中で特に印象に残ったのは、「ノンバイナリー」という言葉。この言葉が出て来る章の最後で、著者の配偶者が、元々は男・女のどちらにも規定しないという意味で使われているこの言葉を、ジェンダーだけじゃなく、特定の民族や宗教に属さないという意味でも使えるんじゃないの、という場面がある。そういう使い方をするなら、この言葉は、自分の属性に縛られない、依存しないという意味で、自分が日頃、そうありたいと考えてる立ち位置を示す言葉になるんじゃないんだろうか、と思った。

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感想「ことばは国家を超える」

「ことばは国家を超える」 田中克彦 ちくま新書
この人は昔からファンなので、著書を見かけると、たいてい買ってしまう。モンゴル語がメインの言語学者だけれど、それ以外の言語についても詳しいし、言語に限定した領域にとどまらず、民族問題や社会問題などについても自在に切り込んでくる。知識の広さと、理路整然とした語り口が、読んでいて楽しいし、いろいろと考えさせられもする。

本書では、主にウラル・アルタイ語について論じている。ウラル・アルタイ語族というのは、おおむねユーラシア大陸の北側に広がる、印欧語族に含まれない言語をひっくるめたような概念で、今ではあまり信憑性がない的な扱われ方をしている、という印象があった。本書で著者は、ウラル・アルタイ語族について丁寧に説明するとともに、あまり正統的ではないものとして扱われている経緯についても細かく述べている。述べられている言葉や定義はおおざっぱには知っていたけれど、なるほどそういうことだったのかと、認識を深めた。もっとも、ウラル・アルタイ語族の是非について、これで判断しようとは思わない。そもそも自分は言語学に興味はあるけれど、あくまでも興味本位の素人なので、そこまで踏み込むつもりもない。そういう概念があって、それに対してこういう議論が戦わされているというところを、読んで楽しんだのと、いろいろな細々とした知識に触れて、感心しただけ。また、ウラル・アルタイ語族という概念が、方々で民族の問題と絡んでくるところを、興味深く読んだ。
著者の書き方も、特定の学説を主張するというよりは、ウラル・アルタイ語を軸にして、時々脱線しながら、思いつくままに文章を綴っているという感じなので、そんな読み方でいいんじゃないかなとも思う。一方で、とりとめない書き方をしていながら、時々、思いのたけを感じさせる強い表現が表れたりする。そういう部分にも、読んでいて感銘を受ける。

いろんなところに話が及ぶのは、広くて深い勉強・研究がバックボーンにあればこそで、うらやましくも感じる。学生の頃に、こういう世界に触れていたら、研究者を志したかもしれないな、と思ったりする。もっとも、研究者でも、こういう境地にたどり着ける人が、そうそういるわけではないだろうな。
(2021.12.26)

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感想「エラリー・クイーン 創作の秘密」

「エラリー・クイーン 創作の秘密」 ジョゼフ・グッドリッチ編 国書刊行会
副題は「往復書簡一九四七-一九五〇年」。2人のエラリー・クイーン、フレデリック・ダネイとマンフレッド・B・リーが、「十日間の不思議」「九尾の猫」「悪の起源」を執筆している時に、お互いでやりとりした書簡を発掘したもので、これらの作品が書かれた時に、二人の間でどういう風に作業が進められていたかを知ることが出来る。今年の6月に邦訳が刊行された。

二人の対立の激しさには驚かされる。執筆している小説の内容に関する意見交換にとどまらない、主導権の取り合いや感情的な対立による、険悪な言葉の応酬が延々と続き、読んでいるのがしんどくなってくる。解説で書かれているような、こういう激しいやりとりがあったからこそ傑作が生まれた、みたいなことは、ちょっと言いたくない。確かに議論の対象は、創作に関することが中心だが、人格攻撃に近い非難の応酬も決して少なくはなく、罵り合いが限度を超えているように感じる。
考え方が大きく違う二人の人間が、異なる角度から議論し合うことによって、独特な傑作群が生み出されたのは間違いなく、議論によって作品の完成度が上がっていく過程も見て取れるが、これほどの感情的な対立が、作品の完成のために必要不可欠なものだったとは思えない。合作を始めた最初から、ここまで険悪だったとは考えにくいので、長年の合作作業が、双方にいろいろなネガティヴな感情を鬱積させたのだろうと思う。
そして、ここまで関係が悪化していても合作が続いたのは、本書を読む限りでは、主に経済的な必要性に迫られたものだったと感じられるので、ますます辛くなってくる。当時、フリーの著述家として生計を立てるのは、そこまで厳しいものだったのか、という感じ。ただ、多額の資金が必要になる特別な事態が、しばしば彼らに襲っていたという事情はあったようだけれど。
もちろん、罵り合う一方で、お互いの能力や仕事に対する敬意や感謝を示す言葉も、方々に見受けられるし、純粋にプライベートな状況では、そんなに悪い関係ではなかったように思わせる記述も、あちこちにある。単に経済的な事情だけでなく、そうした信頼関係もあったからこそ、続いた合作ではあったのだろうとは思う。この時期は作風の大きな転換期でもあったから、双方の考え方の食い違いが、露出しやすいという背景もあったのかもしれない。実際、「十日間の不思議」「九尾の猫」に比べると、「悪の起源」での往復書簡は、ずいぶん穏やかな内容に感じられるし、その間に挟まる「ダブル・ダブル」については、往復書簡があまり存在せず、議論がほとんどなかったのだろうと、編者が書いている。

作品成立の裏側が見えるという意味では興味深い内容だったし、作品理解の助けにもなるとも思うが、あまり気楽に読める本ではなかった。
(2021.8.25)

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感想「ミランダ語が生まれたとき」

「ミランダ語が生まれたとき」 寺尾智史 三重大学出版会
ポルトガルで1998年に、方言ではない「言語」として認定されたミランダ語についての本。twitterで見かけて、読んでみる気になった。
スペインとの国境地帯で話されている少数言語が、どうやって生き延びて、今になって言語として認定されたのか、といういきさつを述べるとともに、「言語」と「方言」の境界の曖昧さ、「方言」と認定された少数言語がどうなっていくのか、そういう少数言語をどうやって守っていくのか、というあたりを考察していく。
また、少数言語が「言語」として認定されて良かった、という単純な内容でもない。ミランダ語は、認定されたとはいえ、それほど手厚い保護を受けているわけでもなく、存在基盤は脆弱なままだとのこと。また、どこまでが「言語」で、どこからが「方言」なのかは、所詮、人為的に定められた政治的なものに過ぎないし、「方言」の中にも、地域的な違いはあって、どこまでをひとつの言語として扱うのか、どこから分けるのかという問題もある。その辺の難しさについても、ていねいに言及されている。
自分の「母語」が、あまりメジャーでない「方言」だったこともあって、こういうテーマにはとても興味がある。どうあるべき、というようなイメージは、いまひとつ見えにくいのだけれど、何もかもを標準語やメジャーな「方言」に強制的に収斂させていくのは、少数言語が積み上げて来た文化の蓄積を捨てる行為だし、そんな世界はつまらない、ということだけは言えると思う。

そうした、メインテーマである少数言語についての考察は、もちろん興味深かったけれど、それ以上に、いまひとつよくわかってなかったポルトガルの近代から現代への歴史の流れが、なんとなく理解できた気がしたのも、個人的には良かった。16世紀に一時、スペインと世界を二分するまでに隆盛を誇ったポルトガルが、急激に凋落して、世界の表舞台から消えてしまった経緯が、本書ではミランダ語の歴史の背景として、丁寧に解説されていた。一時の隆盛と、その後の凋落という歴史には、今の日本がなんとなくかぶって見えると、以前から勝手に思っていて、興味を感じているテーマだった。狂騒的な繁栄から、ひっそりとした沈滞へ向かうのは、そんなに悪いものじゃないんじゃないかと思っているのだけれど(ポルトガル人が、現在の世界での自国の立ち位置について、実際にどういう風に思っているかはともかく)、ポルトガルのここまでの道のりが、そう気楽なものでもなかったのを読むと、そう単純なものでもないな、という気がする。
現時点の日本の、30年も前の繁栄の幻影を引きずったまま、未来の展望がまるで見えてこない悪あがきっぷりを見ていると、結局、ソフトランディングというのはありえないのかもしれない、と思う。今の混乱をくぐり抜けたあとに、平穏な時代がやってくるのか、それともこのまま難破しちまうのか、どっちだろうと、しばしば考える。ちなみに、現時点ではかなり悲観的になっている。

(2021.6.12)

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感想「なっとくする数学記号」

「なっとくする数学記号」 黒木哲徳 ブルーバックス
さまざまな数学記号の歴史や意味を解説する本。2021年2月の刊行。2001年に出た本の改訂・新書化とのこと。
先日読んだ「数学記号の誕生」が、いまいち消化不良気味だったところで、似たような内容と思える本書を本屋で見掛けたので、読んでみた。

+や-という初歩の記号から、大学以上の高等数学で出てくる記号までを網羅して、細かく説明してくれた。「数学記号の誕生」よりも、期待に近い内容だった。
自分は高等数学の入口までは齧ったから、出てくる記号の大半は見覚えがあった。とはいえ、高等数学の記号に関しては、 なにせだいぶ昔のことなので、さすがに中身の理解まではなかなか追い切れなかった。まあ、じっくり考えて読めば、少しは分かってくるのかもしれない。
もっとも、高等数学に触れた時、高校までとそこから先の数学は、まるっきり別の世界のもの、という印象を受けたのは覚えている。高校までの数学の成績が多少よかったからといって、数学なんかを志さなくて良かったと思ったのだけれど、本書を読んでいて、その感覚を改めて思い出した。
ただ、当時、教科書の数式を眺めてるだけでなく、こういう本で関数の意味をイメージした上で勉強していれば、もう少し、理解出来たのかも、とも思った。そういう入門書的なとっつきやすさはある本だった。当時の自分には、そこまでの向学心はなかったけれどね。

本題からずれるが、所々に挟まれる、脱線的な記述には、少し閉口した。数学を語る上では、緻密さを意識していると思われるのに、脱線すると、言うことが、とても大雑把になる。教授が講義の最中に余談を挟むような感覚なのだろうけれど、冗談はおおむねつまらないし、社会論的なことを述べる部分は、決め付けが過ぎる感じ。あくまでも余談で、言い捨てのようなものだから、こちらも読み流せばいいのだろうけど、どうも気になってしまう。
このあたりが、「はじめに」で書かれている、「やさしく」「興味を持っていただけるように」工夫した部分なのかなと想像するが、個人的には逆効果。ただ、理系の人が書く入門書的な本には、どうもこういうスベった傾向を持つ本が多いようにも感じている。理系に対する偏見かもしれないが、自分も経歴的には理系なので、そうなってしまうのが感覚的に分かるような気がする部分もないではない。
(2021.7.13)

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感想「タコの知性」

「タコの知性」 池田譲 朝日新書
琉球大学でタコの知性について研究している著者が、その研究内容を紹介する本。2020年刊行。しばらく前に、やはりタコの知性を論じた「タコの心身問題」という本を読んだ。これは結構話題になっていたらしく、本書が出たのも、それがきっかけのひとつだったのかもしれない。本書内にも同書への言及がある。自分自身、書店で本書を見掛けて、「タコの心身問題」を思い出したので、手に取った。

読んでみると、両書にはかなりはっきり違いがあった。「タコの心身問題」がタコの知性そのものへの考察に重点があるのに対して、本書は知性の有無を検証するための研究手順の紹介に重きが置かれている感じ。基本的な方向性は同じで、タコやイカに知性を見ていく面白さは共通しているが、前者が生物の進化や、知性とはなにかというような、哲学的な所まで言及しているのに対して、本書は、検証のための作業とその結果を語ることに、重点を置いている印象。
読み物としての面白さや興味深さでは、 タコの知性の有無の話にとどまらない奥行きのある、「タコの心身問題」の方が上だとは思う。
一方、本書は、個々の研究内容について、大学の研究室で、教授と学生たちが地道な作業で結論を導くプロセスが、細かく描かれている。現時点での研究の到達点が、より身近なものとして見えているように感じる。

なお、著者のあとがきを見ると、共同研究者だった学生たちの研究風景を紹介することも、執筆意図のうちにあったらしい。そのくだりを読むまでは、文中にいちいち学生の名前を記述していることに違和感を感じたのだけれど、そういう方向性で書かれた本なのであれば、無理はないなと思った。読者にとっては、あまりどうでもいいことだとも思うのだけど、新書という比較的気楽なフォーマットなら、そういうのもありだろうな。
(2021.5.26)

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