感想「プロ野球と鉄道」

「プロ野球と鉄道」 田中正恭 交通新聞社新書
プロ野球ファンの鉄道愛好家が、タイトルの通り、プロ野球と鉄道の関わりについて、プロ野球の歴史の初めからたどったもの。今年の2月に出た本。

当然、鉄道会社の球団の親会社としての関わりが、内容の大きな部分を占めるが、チームや観客の輸送という観点も結構大きくて、本書の独自性になっていると思う。当時の列車時刻表から検証しているのを見ると、確かに新幹線開通前の広島や福岡や仙台からの移動は大問題だったんだなと分かる。今みたいに全国にチームが散らばっていても、週6日ペースで試合が出来るのは、対応する交通インフラがあってのことなんだなあ。

それ以外では、著者には阪急の東京応援団員だった経歴があり、今では全球団の試合をまんべんなく見に行っているとのことで、実際に現場を知っているリアリティが感じられるのがポイントと思う。ただ、神宮球場のスタンドの風景の描写は、ちょっと古い(2-3年前な感じ)気がした。あと、そういう経歴にしては、球場観戦試合1000試合以上というのは、控え目な数字だね。まあ、2000試合には届いてない、くらいのイメージなのかな。

単にプロ野球の歴史をコンパクトにまとめた本として読める部分もあるが、その辺は今は類書も多いので。参考文献がいろいろ挙げられていて、それらの内容に拠る所も多いんだろうと思う。ちなみに宝塚運動協会について、ここまで丁寧に触れた記事を読んだのは初めてだった気がするが、これも参考文献のどれかに元ネタがありそう。やはり本書の一番の読みどころは、独自性を感じられる部分の面白さだと思う。
(208.8.18)

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感想「独裁国家に行ってきた」

「独裁国家に行ってきた」 MASAKI 彩図社
世界204カ国を旅行したという著者が、各地の独裁国家へ行った体験をまとめたもの。
あくまでも限られた時間と地域での著者の体験記なので、この本の記述だけで、この国はこうなのか、と考えてしまうのは危険だろうけれど、一般的なメディアでは、あまり伝えられない国のレポートが多いので、興味深い内容ではあった。コンゴとかサウジアラビアとかベネズエラとかの内情を伝えた記事って、なかなか見ないものな。

独裁国家と言っても中身は様々で、統治機構自体が腐敗している結果、危険きわまりない国もあれば、独裁によって安定が保たれている国もあり、ひとくくりでは考えられないというのがよくわかる内容だと思う。
独裁は、イコール悪ではなくて、本当に理想的な独裁政権なら、むしろ健全で効率的に国を運営出来るかも、とは思っている。
ただ、一方で「独裁」は、原理的に多様性とは相反するのでは、とも思う。そもそも、本当に理想的な独裁なんてものが、現実にありえるのか、ということもある。
そして最大の問題は、仮に良い「独裁」があったとしても、それが腐った時に、それを国民が排除するのがとても難しい、ということだと思う。うまく回っているように思えた独裁国家が、独裁者の変質でおかしくなったが、独裁を倒すことが出来ずに破綻に向かう例は、世界中にいくつもある。たとえば、本書に収録された国で言えば、ジンバブエがそうだったはず。
その点、民主主義は、腐った権力を民意で倒すことが、少なくとも原理的には可能なわけで、いろいろ欠点はあるにしても、民主主義が最善の選択ってのは、そういうことだと理解している。
とはいえ、民主主義の下でも、権力に対抗する勢力の力が十分でなかったり、権力に飼い慣らされた国民が多かったりしたら、それはうまく機能しないわけだけれど。今の日本はそういう状態だろう。

それはそれとして、リベリアやナウルは、必ずしも独裁体制が、その国の問題の本質ではない気がした。興味深くはあったけれど、この本で取り上げるのが適切なんだろうか、とは思った。
(2018.5.13)

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感想「本格ミステリ戯作三昧」

「本格ミステリ戯作三昧」 飯城勇三 南雲堂
本格ミステリの有名な作家や作品についての評論集だが、形式が独特。対象とした作家の作風や作品について、それらを真似て、論点が明確になる内容の贋作を書き、併せて評論で論じるという形を取っている。小説と評論が並行して置かれているので、確かに著者の意図が分かりやすい。自分がそれほど関心がない作家や作品についても、言わんとしていることが何となく理解出来るというメリットもあったかなと。
贋作の内容については、基本的にはお遊び的なものなので、あれこれ言うのは無粋かな。ただ、しっかり考えて書かれたものではあるし、どれも面白く読めた。

そこそこ分厚い本ではあるが、15章から成っているので、一篇一篇は結構短く、やや食い足りない部分もある。体系的な評論集というよりは、ミステリのマニアが、思いつくままに色んな作家や作品を論じてみた、という雰囲気が強く感じられる内容だと思う。商業出版にしては、随分、趣味的な本だなあ、とは思ったが、著者の名前だけでも、ある程度は売れるという判断を出版社がしたんだとすれば、飯城さんにはちょっと感心してしまう。ミステリ・マニアとしての、長年の活動の積み重ねの上で、出せた本だと思うので。
まあ、同じ出版社が2016年に出した「本格ミステリー・ワールド2017」を読んだ時、まるっきり同人誌だな、と思ったのだけれど、それを考えれば、こういう本が商業出版で出ても、不思議はないのかもしれない。ちなみに本書収録の綾辻行人篇は、「本格ミステリー・ワールド2017」からの再録。

なお、著者がエラリー・クイーン研究家なので、クイーン関連の項目が多い。クイーンに関する贋作・評論だけでも、読む値打ちは十分にある本じゃないかと思う。
(2018.2.17)

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感想「これで古典がよくわかる」

「これで古典がよくわかる」 橋本治 ちくま文庫
日本の古典というのがどういうものかというのを、わかりやすく説明した本。原著は1997年、文庫版は2001年の刊行。
ちなみに、前半部は主に、古典そのものを、わかりやすく説明したわけではなくて、平安時代以前の古典が、なんでとっつきにくいかというのを、わかりやすく説明している内容。単純に言っちゃえば、平安時代以前の古典の書き言葉は、今の日本語とは違っているから、ということなんだろうと思うが、それで合ってるかな。

要するに、日本語を書き表すにあたって、元々は中国から貰ってきた漢字を使っていたが(万葉仮名)、それが不便なので、漢字から派生したひらがな・カタカナを使って書き表す段階を経て、現在の表記に通じる、かな漢字混合文にたどりついた。だから、かな漢字混合文より前の文章は、読みにくくって当たり前だと。納得しやすい説明だと思う。
で、何が書いてあるかわかってみれば、今時の日本人とそう大差ないことを書いているに過ぎないので、そんなに分かりにくいものではないよ、と。この辺に関しては、近頃、日本の古い絵画の展覧会に行って、絵巻物などを見ると、これって今時のマンガと大差ないんじゃない?、と感じることが、あまりにも多いので、日本人の考えることというのは、昔から大して変わってないんじゃないかと思うようになっているから、素直に、そうだろうなあ、と受け止めた。源実朝って、そういうことを書いていたのか、と思うと、急に身近に感じられたりする。

書き言葉の表記の問題については、しばらく前に読んでいた、田中克彦の漢字廃止論に通じるものがあると思う。別に橋本治は漢字廃止論を語っているわけではないが、日本語を書き表すためには、それに向いた文字体系がある、という話であり(かな漢字混合が読みやすいと言っているから、漢字廃止論ではないよな。まあ、そもそも、そういう文脈の話をしているわけではない)、漢字というのが、どれだけタチが悪い文字か、ということも書かれているので。

それはそれとして、古典というのが、難しく重々しいものであるというイメージが形作られたのは明治時代だ、というのは、よくわかる。明治の新政府というのは、自分たちを権威づけるために、いろんなものをねじまげたんだよね。
江戸時代に、自分たちが抑圧されていたと思っていた連中が、天下を取った勢いで、偉そうに振る舞ったというのは、分かりやすい話ではあるけれど、それが原因で、日本はおかしな国になって、1945年に滅亡寸前まで行った。
そこで一旦はリセットされたけれど、執念深く生き残って、無反省に明治時代を賛美しようとしている連中が、また今、のさばっている。明治時代が、それ以前に比べて、すべてダメだったとは思っていないが、間違いなく、手放しで賞賛してよいような時代ではなかった。
こういうテーマも、結局、そういう所に行きついてしまうんだな、という感じがする。根拠がないもの、反省がないものは、きっちり批判していないといけない、ということだと思うんだが、今の日本は、国レベルでそういう所がまるでダメになっているよな。

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感想「ブレードランナーの未来世紀」

「ブレードランナーの未来世紀」 町山智浩 新潮文庫
80年代に製作され、カルト的な人気を博したアメリカ映画を解説する内容。元版は2006年の刊行。取り上げられている映画は、「ビデオドローム」「グレムリン」「未来世紀ブラジル」「ブルーベルベット」「ターミネーター」「プラトーン」「ロボコップ」「ブレードランナー」。
自分が一番映画を見に行ってたのは80年代の、これらの映画が公開された頃で、当時、「スターログ」とかの雑誌を読んでいて、映画の背景情報にも割と通じていたから、この辺の作品には思い入れがある。もっとも、グロそうだなと思って、見るのを敬遠したものもあるが…(「ビデオドローム」「ブルーベルベット」「ロボコップ」)。本書を読む限り、その判断は正しかったぽい。改めて見ようという気も、ちょっと起きない。映画そのものへの興味は沸いたけれど、グロい映像は苦手で。

見たことのある作品についての解説は、当然興味深かった。その作品が製作された背景から、ストーリーを追いつつ、個々のシーンが持つ意味までが、丁寧に考察されている。何度も見て、内容がかなり細かく頭に入ってる映画については(「ブレードランナー」「グレムリン」)、そうした解説で、さらに理解が深まったと思うし、そこまでの知識がない映画にでも(「ブラジル」「ターミネーター」「プラトーン」)、そういうことだったのか、と思わされる所が各所にあった。
ついでに言えば、見てない映画も見たような気にさせてくれた(^^;)。
じっくり書き込まれた、重みのある本だと思う。

ところで、巻末に「あまりにも多くのものがすでに作られてしまった。何をやっても誰かのレプリカになってしまう」というくだりがある。この前後に書かれている部分も含めて、それは近年、自分が感じていることだなと思った。映画、というか、フィクション全般について、昔ほど魅力を感じなくなっている、夢中にならなくなっているのは、多分、そのせい。
それと、その手前の段階として、過激なもの・グロテスクなものが、新しさを目指す手段として多用され始めたと思うし、その時点で、自分のフィクション離れが始まっていたような気もする。映画に関しては、そもそも、この本に取り上げられている作品群が、そのさきがけだったとも考えられる。だとすると、ある意味、自分にとっての映画への強い関心は、始まったと同時に終わっていたのかもしれない。
著者は「この先、新しい夢を見られるのはいつだろうか?」と結んでいるけれど、そこについては、自分はかなり悲観的。

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感想「幸運な男」

「幸運な男」 長谷川晶一 インプレス
ヤクルトスワローズのピッチャーだった伊藤智仁の半生記。
タイトルは、彼が「悲運のエース」と言われているが、実は幸運な男だったのかもしれない、と著者が思った、というところから来ている。というか、智仁自身が、自分の半生を振り返って、ラッキーだったと言っているのだそうで。本書を読んでいると、確かにそうなのかもしれない、とも思えてくる。不運は不運だけれど、特別な能力を持って特別な経験をしたのも確かだし、それは多分に幸運に恵まれてのことだった。おそらく、大多数の人間と同じくらい、いいこともあれば悪いこともある半生だったんだろうと思う。ただ、その振れ幅が、並みの人間よりも大きかった。そして、幸運も不運も同じくらいあったんだとすれば、それをどう取るかは、本人の気持ち次第だろうな。

もちろん、93年の劇的なデビューと、実働わずか3ヵ月での故障による離脱、以降の苦闘が、本書の内容の中心になる。
93年の故障については、当時の野村監督による登板過多が原因だと一般的に思われているし、本書を読んでも、それは間違いではないと思えるが、その後、復活するまでの道のりが長かったこと、復活した後も元通りにはならなかったことについては、それ以降の対応に、いろいろと失敗があったことも、大きく影響していることが分かった。智仁自身が判断を誤って、無理をしてしまった面もあったらしい。そもそも、智仁が凄いピッチャーになれたのは、身体の柔らかさに恵まれていたからだけれど、それが故障の大きな原因でもあったということになると、93年にああいう劇的な形で居なくなるということがなかったとしても、早晩、故障を発生していた可能性が高いような気がしてくる。あの頃の日本では、今ほど、投手のコンディションに注意が払われていなかったし、知識も普及していなかっただろうから、こうした特別な身体を持ったピッチャーに、故障なく、キャリアを全うさせる環境はなかったんじゃないだろうか。
そう考えると、「不運」だったのは、そもそもそういう身体に生まれついて、プロ野球のピッチャーになってしまったことそのもの、とも思えてくるし、それはもう、運・不運で語ることではないような気がする。

とはいえ、やっぱり、読んでいて、かなりつらい気分になる本だった。この先、どういうことが起きるかというのが分かっているからね。智仁のキャラに悲劇性がないのが救い。智仁の人間性がよく見えてきて、いいやつだなあと思うし、読んでよかったとは思ったが。

それにしても、智仁のこうした経験が、スワローズにどれくらい生かされているんだろうと思う。昨年の秋吉のリタイアには、智仁の経験が生きたというようなことが、本書には書かれているが、この10数年、このチームがどれだけの選手を故障で失ってきたかということを考えると、疑わしくなってくる。好意的に考えれば、早め早めに手を打っているから、故障離脱の選手が多くなる、ということなのかもしれないけれど(とてもそうは思えない事例を、いくつも聞いてはいるが)。それにしては、故障から万全で戻ってくる選手が、少なすぎるようにも思える。 経験を生かせていないとしたら、それはチームの怠慢だよ。
やたらと故障からの復活を美談にしたがるが、そんなものは、本当はない方がいいんだから。

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感想「黙殺」

「黙殺」 畠山理仁 集英社
マック赤坂など、一般的には「泡沫候補」と言われるタイプの選挙への立候補者(著者は敬意を込めて「無頼系独立候補」と呼んでいる)に取材したノンフィクション。主に2016年の東京都知事選を中心に描かれている。
ポイントは、メディアでの露出が「泡沫候補」と「主要候補」で圧倒的に違うこと、それによって、本来公平であるべき各候補者の選挙運動に大きな不公平が生まれていること。また、高すぎる供託金などによって、そもそも選挙への立候補のハードルが著しく高いことも、問題点として提起されている。
「無頼系独立候補」だからといって、政策がないわけではないし、特に国政選挙に関して言えば、政党の操り人形でしかない議員なんかより、よっぽど真剣に考えている人たちかもしれないんだから、彼らを無条件に「黙殺」するのは、確かに不当なことだと思う。

選挙で投票する時、近年はいわゆる「戦略的投票」というのを考えて投票することが多いし、「無頼系独立候補」は、そういう考え方とは共存しにくい存在と思うので、あまり好意的には考えないことの方が多い。でも、本書を読んでいると、本当は「無頼系独立候補」の方が民主主義を体現する存在かもしれない、とも思えてくる。少なくとも理想論としてはそうであるはず。確かに「戦略的投票」というのは、あくまでも最悪の結果を避けようとするための、多分に消極的な選択なんだから。
ただ、今の日本の選挙は、そういうことを考えないといけない状況にあると思うから、選挙での投票について、今のスタンスを変える気はないが。というか、そもそも、そういう候補が出てくる選挙にも、あまり遭遇しないけれど。それについては、どんな選挙でも、いろんな候補がどんどん出られて、それぞれの主張がしっかりと伝えられるように、選挙制度が変わるべきなんだろうとは思う。そうなれば、世の中の状況は、大きく変わってくるんじゃないだろうか。

それはそうと、今の選挙制度って、いろんな部分で、時代と乖離してしまっている気がしている。これだけビデオが普及して、ネットでの動画も当たり前になっている時代に、同じ内容の政権放送をテレビで度々再放送する必要があるんだろうか、とか。選挙公報だって、現実に投票日の直前にしか届かないことを考えれば、ネット配信を積極的に使えば、より柔軟な運用が出来るのでは、とか。著者が本書で書いている、選挙ポスターの掲示板のデジタル化もそう。今の時代なら、候補者に対する本質的には無意味に高いハードルを、下げる工夫は色々出来るはず。既成政党は「既得権益」を守るために、やろうとしないかもしれないが。
もっとも、今の状況を見ていると、既成政党であっても、成り行き次第で、こういうハードルが大きく立ちふさがってくる時代なんじゃないか、という気がする。選挙を、民主主義を支えるための制度として、しっかり機能させるために、この辺は真剣に考えるべき問題じゃないかと思う。
(2017.12.23)

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感想「イザベラ・バード」

「イザベラ・バード」 パット・バー 講談社学術文庫
明治時代の初期に日本を訪れた、イギリスの女性旅行家の伝記。2013年の刊行。
この人が奥羽地方や北海道を旅した体験は、「日本奥地紀行」という、割と有名な本にまとめられ、山形県の南陽市にはイザベラ・バード記念塔というのもあるとか。ただ、イザベラ・バードという名前は知っていたが、実質的なことはあまり知らなかったので、本書を読んでみた。

この人は日本だけでなく、世界各地、しかも辺境的な地域を好んで旅していた人物だったと、初めて知った。イギリスでの日常生活の中では平凡な女性で、むしろ病弱なくらいだったのが、40代になって旅に出ると、別人のように活気にあふれた人間になったというのが、当時のイギリスでの女性の抑圧ぶりを示しているように思えた。それにしても、並みの人間であれば男でも行かないような、厳しい環境や危険な場所へも行ってしまうんだから、並大抵のことじゃない。火山の火口の近くとか、極寒の山奥とか。それほど強い、抑圧への反動があったということなんだろうか。
以前、「ヒマラヤ自転車旅行記」という本を読んだことがある。40代半ばのイギリス人女性がヒマラヤの麓を自転車で走破した体験談で、これも結構無茶な話だった。通じるものがあるのかな、と思ったが、日本人女性の冒険家も結構居ることを考えると、一定の割合で、そういう人物はいる、というだけの話かもしれない。

19世紀末の世界各地の状況が見て取れる所も、興味深かった。アメリカに併合される前のハワイ、中国ではなくイギリスの支配下にあるチベット、マレー半島への中国人の浸透ぶりなど。当時の日本の田舎の悲惨な風景も描かれていて、まあ、そんなもんだったんだろうなあ、という感じではある。バードは北海道ではアイヌと会っていて、この時点では、まだアイヌは民族として、しっかり存在していたように思える。それから100年かそこらしか経ってない今の日本では、レイシストが、アイヌなんていない、みたいなことを言ってしまうような状態になっている。虚しい感じがする。

それにしても、本書の翻訳にはかなり違和感を持った。読みにくい文章な上に、明らかに誤りと思われる個所もある。最後の方には、原著から一部割愛したとのお断りが入っている章があるが、理由が書かれていないので、翻訳の問題があったんじゃないんだろうかと疑ってしまった。もうちょっと何とかならなかったんだろうか。
(2017.10.10)

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感想「言語学者が語る漢字文明論」

「言語学者が語る漢字文明論」 田中克彦 講談社学術文庫
著者の「自伝」を読んだタイミングで、同書でも言及されていた本書が目に止まったもので、つい買ってしまった。8月に出た文庫版。
2011年に出た元版は「漢字は日本語をほろぼす」というタイトルで、今回文庫化にあたり、あまり挑発的でないものに改めたそう。けれども、元のタイトルの方が、本書の主張を、より直接的に表しているのは間違いない。大量の漢字を覚えるのに膨大な労力を必要とするせいで、日本語が使い勝手の悪い、将来性のない言語になっている、日常の言語としては漢字を使わないようにすべき、というのが基本的な主張なので。

主なポイントは、ひとつは、漢字を覚えることに労力を費やすために、教育の中でそれ以外のことがおろそかになって、失われているものが多い、ということ。もうひとつは、外国語人が日本語を習得するハードルを上げてしまっているので、国際化への対応が困難になっているということ。
自分自身は、好き好んで複雑な漢字を使ったりするし、漢字のややこしい特徴を面白いと思っている人間だけれど、本書で主張されていることは理にかなっていて、納得のいくものだと思う。マニアックな漢字への愛好は、本来、日常の実用性とは違う所で語られるべきものだろう。

カナモジ会やローマ字運動などのことは、以前から知っていたけれど、何か胡散臭いものとしか思っていなかった。こういうふうに漢字のデメリットを説かれてみると、そういう運動が生まれた必然性がよくわかる。
なぜ、そういう運動が広がらないかといえば、一旦漢字を覚えてさえしまえば、かなり便利だからというのはあるだろうな。文字というより記号に近いので、一目で多くの情報が得られる利点がある。だから、既にそういう環境に適応してしまっている人には、漢字を使わないことはデメリットとしか感じられない。自分でも、漢字はあった方が便利だし面白いというのが、問題意識とは別に、本音ではある。
けれども、適応できていない人、これから適応を迫られる人にとっては、ハードルがとても高いということは理解した。漠然と分かってはいたと思うけれど、割とレアなケースという気がしていて、あまり深刻には考えていなかった気がする。実際には、目の前の問題として、外国から人を受け入れることが重要になっていたり、子供の教育のレベルが低下しつつある現実があるわけで、十分深刻なテーマになりつつあるんだな。

ベトナムや朝鮮は漢字を捨てて、ラテン文字やハングルに乗り換えたわけだけど(厳密にはベトナムは漢字ベースの字喃も含むのかな)、識字率の低さというのが背景にあったはず。そういう状況も日本にはないと思うし。
とはいえ、識字率が高いというのは、多分、カナが読めるということだろう。漢字が読めないというのは、日常的によくあることだし。
その辺を考えると、本書で問題例として引かれているような難しい漢字は、日常的にはそんなに要求はされていない気もして、議論を日常から少し離れた所へ持って行き過ぎている気はしないでもない。特殊な分野での難しい漢字使用がもたらしている、権威主義や閉鎖性の問題は、よくわかるけれど。
もっとも、日常的に使っている漢字だけでも、十分に多過ぎる、とは思う。そういう観点からすると、公文書で使える漢字を広げていく昨今の流れは、あまりよいことではないことはず。そんなことは、今まで考えもしなかった。

それ以外にも、今の日本の状況の本質に関わるような深い問題をいろいろはらんでいて、予想していたよりも、はるかに深いテーマだと思った。反論するにしても、感情的な漢字支持論で済むような問題じゃない。

それにしても、過去に意識せずに読んでいたいろんなテーマの本が、この本を中心に繋がっているようで、著者と自分のシンクロ率の高さを感じた。というか、自分が無意識にこの人に感化されているのかもしれない。この人の著書は、結構読んでるし。

ところで、朝鮮のハングル採用には、ナショナリズムの高揚も背景にあったはずだけど、日本の「ナショナリスト」は、中国製のものを批判するのが好きな割に、なぜか漢字を愛好する傾向があるように思える。その辺にも、漢字使用と権威主義や閉鎖性の関連が、見えるような気がする。
(2017.9.10)

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感想「「野球」の誕生」

「「野球」の誕生」 小関順二 草思社文庫
先月の新刊。2013年に別題(「野球を歩く」)で刊行された本の文庫化とのこと。

渡来から1950年代頃までの日本の野球の有り様について、球場(練習グランド的なものも含む)を切り口にして語った本。
取り上げられている球場は、なくなって50年以上経つような昔のものが多く、近年増えてきた、昔の球場について書いた本でもある。著者は、2015年に旧新橋停車場で行われた「野球と鉄道」展の監修者でもあるとのこと。
各球場についてのエピソードは興味深いものが多いが、野球自体が日本の中でどういう風に受け入れられてきたかというのが概観出来る所もいい。何ヵ所かに出てくる正岡子規の野球好きのエピソードは特にいいな。
あとは大宮公園球場のくだりが、身近な球場なので(という割に入ったことは一度しかないが)、書かれている内容に実感があった。

それから、時節柄、特に強い印象が残ったのは、主に後楽園球場のくだりで語られる、太平洋戦争で戦没した野球人のエピソードだった。日本の野球の歴史を遡っていくと、戦争で無駄に死ななきゃいけなかった野球人や、野球そのものが敵性スポーツとして国から白眼視された時代という所を、必ず通ることになる。そういう意味では、今でもこれだけの規模の人気や影響力を保っている野球を通して、戦争を語るというのは、かなり有効な手段のように思える。また、野球に関わる人間(必ずしもプレイヤーに限らない)が、過去にそういう理不尽な時代があったことを意識し続けるというのも、意味があることなんじゃないだろうか。
(2017.9.4)

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